人間の持つ知性を理解した上でAI、機械知性とは何かをみてみよう。
先の情報処理のバリューチェーンの中で言えば、画像や音声の認識、パターン認識など、何か1つでも、部分的にでも自動化したものが現在のAIと呼ばれているものだ。
驚かれるかもしれないが、すべてどころか複数を同時に行っているものすらそれほど存在しない。
いわんや先に挙げた典型的な知的活動、人間が知性を感じるような活動の大半についてはお手上げだ。
人間のプロを超える読唇や皮膚がんの診断、瞬時の翻訳、また注文前の出荷など、人間にはほぼ不可能なことがどんどん実現されている事は事実だが、これらはすべての情報の「識別」、「予測」、暗黙知の取り組みによる「実行」の自動化のいずれか、もしくはその組み合わせにすぎない。
我々の持つ知性とAIのもっとも本質的な違いの1つは、AI、機械知性はイミを実感のあるものとしては何も理解していないということだ。
単に情報処理を自動化しているだけであり、何を行っているかすら理解していない。
つまりAIは、識別は見事にできても本質的に「知覚」していないのだ。
しかも、キカイに我々と同じような身体がないこと、色や形のような基礎的なモダリティのイミから組み上げがないために、この課題が解決する見込みは立っていない。
かたや中枢神経をもつ生命は人間に限らず、たとえ魚であっても見ている対象についてのイミはある程度理解している。
もう1つの本質的な違いは、AIには式がないということだ。
そのため何がどうあるべきか、どうありたいと自律的に判断することができない。判断軸、価値観は人が与える必要がある。
いずれ大半の処理過程は自動化するだろうが、それらの一つひとつが自動化することと、統合した意思をもつ生命が生まれることは全く別だ。
「意思」は生命の本質である。
単細胞生物であり、神経系を持ちようのない大腸菌ですら化学走性と呼ばれる”意思”を持って危険物質から逃げ、食物に向かう。
一方、世界最高の棋士たちを打ち破ったDeepMind社のAlpha Go が対局中に火事に遭っても、燃え尽きるまで碁を打ち続けるだけだ。
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