データ×AIリテラシーを母国語、世界語、問題解決能力と共に持ったとする。
そうすればもう特に問題ないのだろうか。

残念ながら答えは否だ。
データ×AIの力を解き放てば、情報の識別、予測、また目的が明瞭なことの実行系はことごとく自動化される。

これは確かに偉大なことだが、これらの業務から解き放たれてなお、人間に残る役割がある。
自分なりに見立て、それに基づき方向を定めたり、何かをやるかを決めること、また問いを立て、さらに人を動かすことだ。

例えば、データ×AIの時代が進むとこれまで全く検出できなかった稀な異常値がどんどん見つかってくるだろう。
それを見て全体としてどう考えるか、新しい問いを立てられるかは明らかに僕らにかかっている。
キカイはそういう事例をどんどんと吐き出すが、そこから先を考えることが出来ないからだ。

それを見立て、新たに問いを立て深い気づきを得られるかは、活動の目的や文脈、様々なことに照らし合わせて、何かをかぎ分ける力、統合して意味合いを考える力の有無にかかっている。

また、ほしい姿をデザインする際のベースになるのは、夢を描く力、妄想力、そして自分なりに見立てる力だ。
さらに、キカイが出してくる指示をそのまま伝えても人は動かない。
まずは自分が腹落ちした上で、それぞれの人たちに、これまでの文脈、これからのビジョンも合わせて、受け手に合わせて説明し、腹落ちしてもらい、動かすのも僕らの大事な仕事になる。

 

昨今、時代の変化の激しさと日本の現状のために、データ×AIリテラシーの事ばかりが強調されているが、上記の理由で、残念ながら片手落ちと言える。
むしろその人なりに感じ、考える力がなければ、自分なりの妄想やデザインなどしようがなく、新しいタイプの非自由民、使われるだけの人になってしまう可能性すらある。

映画「マトリックス」3部作で描かれたデータジェネレーター的な世界だ。
そう、逆説的に聞こえるかもしれないが、実はデータやAIの力を解き放ったときに求められるのは、さまざまな価値やよさ、美しさを知覚する力であり、人としての生命力、人間力になる可能性がたかい。一見異なる2つの力がサンドイッチ的に必要になる。

キカイの強さを解き放ちつつ、人間の強さを活かす、そんな時代に突入しているのだ。

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