企業価値最大化に関する理論・実証研究の包括的レビュー
1. 理論的基盤と主要理論の展開
企業価値最大化(株主価値最大化)の考え方は、経済・金融学において長い歴史があります。Modigliani & Miller (1958)の古典的論文「The Cost of Capital, Corporation Finance and the Theory of Investment」では、資本構成の無関連性が提唱されました。彼らは完全市場の仮定の下で「企業の市場価値は資本構成(負債比率)には依存しない」ことを示し、企業価値は保有資産の収益力で決まると論じていますaeaweb.org。同論文では投資判断に市場価値を用いるべきとし、「あるプロジェクトが企業の株式価値を増大させるか」をテストすればよいと述べていますaeaweb.org。この考え方は、経営者は株価(市場評価)を基準に正味現在価値(NPV)の正の投資のみ行うべきとの指針を示すもので、資本コストと投資意思決定を結びつける理論的基盤となりました。
その後、エージェンシー理論が企業価値最大化に重要な示唆を与えました。Jensen & Meckling (1976)「Theory of the Firm: Managerial Behavior, Agency Costs and Ownership Structure」は、企業を「契約の束(nexus of contracts)」と捉え、所有と経営の分離による代理問題を分析しました。彼らは、経営者(エージェント)と株主(プリンシパル)の利害不一致から生じるエージェンシーコストが不可避であり、その結果「経営者が雇われた公開会社では、必ずしも企業価値最大化の方向に経営されない」ことを指摘しましたpromarket.org。例えば、経営者は自己の利益や安心を図って必要以上の現金を社内留保したり、過剰な多角化投資(いわゆる帝国建設)を行う傾向があり、これが株主価値を損なう可能性があります。この問題に対処するため、経営者へのインセンティブ設計(株式報酬や業績連動報酬)やコーポレート・ガバナンス(取締役会による監督、敵対的買収の脅威等)が理論的に重視されるようになりましたpromarket.org。Michael Jensenは1980年代後半の研究で、自由現金流(フリー・キャッシュフロー)の過剰は価値破壊的な投資につながり得るため、レバレッジ(負債)を増やして株主への配当・自社株買いで余剰資金を吐き出させることが有効(レバレッジド・バイアウト等の正当化)と論じました。これらはすべて、経営者を企業価値最大化の目標に沿わせるための理論的枠組みです。
株主価値最大化は経営の目的として長らく支持されてきましたが、その定義や範囲についても議論があります。経済学者のMilton Friedman (1970)は「企業の社会的責任は利益を最大化すること」と主張し、株主利益の追求が最終的に社会全体の効率と厚生を高めると論じました。しかし21世紀に入り、この考え方に対する批判や修正も現れています。Michael Jensen (2001)の論文「Value Maximization, Stakeholder Theory, and the Corporate Objective Function」では、「一度に複数の尺度を最大化することは論理的に不可能」であるため組織には単一の目的関数が必要とし、それは「長期的な企業の総市場価値(負債や優先株を含む全ての金融クレームの価値)の最大化」だと論じましたhbs.edu。Jensenは、全ての企業が価値最大化を目指すとき(外部不経済が無い場合)社会的厚生が最大化すると述べ、依然として株主価値最大化を最適な原則と位置付けていますhbs.edu。一方で彼は、ステークホルダー論が「様々な利害のどのトレードオフを選ぶか明確な基準を示さないため経営者を免責してしまう」と批判しつつ、「啓蒙された価値最大化(enlightened value maximization)」を提唱しましたhbs.eduhbs.edu。これは長期的な企業価値の最大化を目的としつつ、従業員・顧客・地域社会などステークホルダーの利益を無視せず考慮するアプローチですhbs.edu。要は「企業価値の長期最大化を唯一の意思決定基準とし、それを達成するにはステークホルダーとの協調が必要」という考え方で、近年の「目的主導型経営(Purpose-Driven Management)」にも通じる理念です。
以上のように、企業価値最大化の理論的基盤としては、「資本コストと価値評価」に関するModigliani-Millerの理論、エージェンシー問題に着目したJensen & Mecklingの理論、および株主価値を唯一の目的とすることの妥当性・限界に関するJensenやFriedmanの議論などが挙げられます。これらは企業金融やコーポレートガバナンスの研究で繰り返し引用される代表的理論であり、現代の実務でも価値指向経営(Value-based Management)の思想的な柱となっています。
2. 企業価値とガバナンス・財務戦略・資本効率に関する実証研究
理論面での枠組みを踏まえ、多くの実証研究が「どのような要因が企業価値(例えばトービンのQや株式時価総額)に影響を与えるか」を検証してきました。ここでは資本構成(負債・自己資本比率)、コーポレートガバナンス、および資本配分・ROICに関する主要な実証知見を概観します。
-
資本構造と企業価値: Modigliani-Millerの命題に反し、現実の企業では負債比率の違いが価値に影響を与え得ることが知られています。実証的には、適度な負債は節税効果により企業価値を高める一方、過度な負債は財務困難コストや破綻リスクにより価値を毀損し得るという「トレードオフ理論」が支持されています。例えば、ある研究では企業がレバレッジを上げて自社株買い等を行うと株価が上昇しやすいことが報告されており(成熟企業で投資機会が乏しい場合に顕著)、これはJensenの自由現金流理論と整合します。また、国際比較では各国の税制や債権者保護制度の違いから最適資本構成に幅があることが示唆されています。近年の研究として**Khan (2023)はシステムダイナミクスモデルで負債政策と企業価値の関係を分析し、負債増加が一定条件下で価値にプラスとなる一方、リスク要因も高める複雑な非線形関係を示していますonlinelibrary.wiley.comeconstor.eu。総じて、「負債の利用は企業価値に正負両面の影響を持つ」**との経験的知見が多く、実務では加重平均資本コスト(WACC)を最小化する資本構成を模索するアプローチが取られています。
-
コーポレートガバナンスと企業価値: ガバナンスの質(株主が経営を監督・牽制できる度合い)は企業価値と密接に関連すると多くの研究が示しています。代表的なのがGompers, Ishii & Metrick (2003)の研究で、米国企業について24項目の反買収条項や株主権保護策からガバナンス指数(G指数)を作成し分析したものです。同研究では「株主権利が強い企業ほどトービンのQが高く、株主権利が弱い企業ほどQが低い」という強い相関が見出されましたnber.org。具体的には、1990年時点でガバナンススコアが1ポイント悪化するとトービンのQが2.4%低下し、1999年にはその差が約8.9%に拡大していたと報告されていますnber.org。さらに株主権利の弱い企業では利益率や売上成長が低く、設備投資が過剰で、買収も多い傾向が確認されましたnber.org。これはガバナンス不全が効率の悪い投資や低収益体質につながり、結果として企業価値を押し下げることを示唆しています。この研究以降、各国でガバナンス指標(例えば独立取締役比率、CEOと会長職の分離、所有構造等)と企業価値の関係を調べる実証研究が相次ぎ、総じて「より株主フレンドリーなガバナンスを持つ企業ほど市場評価が高い」との結論が多く得られています。例えば、**Claessensら(2002)は新興国での大株主支配と企業価値の関係を分析し、ピラミッド型支配構造では価値割引が見られると報告しています。またBhagat & Bolton (2008)は米国企業で取締役会の独立性や役員持株率が高いほど将来の営業成績が良好との結果を示しました。一方、Bhagat & Black (2002)は取締役会独立性と企業パフォーマンスに有意な相関を見出せないなど、細部では結果が分かれるケースもあります。しかし近年は、独立社外取締役の設置、経営陣の報酬と業績の連動性、機関投資家のモニタリングといった要素がエージェンシーコストを低減し企業価値を高める方向に働くことを支持するエビデンスが蓄積しています。総じて実証研究は、「良いガバナンスは高い企業価値をもたらす」**ことを裏付けており、これは株主価値最大化を促す制度・仕組みの重要性を示しています。
-
資本配分効率(ROE・ROIC)と企業価値: ROIC(Invested Capitalに対するリターン)やROE(自己資本利益率)は企業の価値創造力を測る代表指標であり、これらと企業価値との関連も多く研究されています。基本的な考え方はシンプルで、「資本コストを上回る投資リターン(ROIC)が持続的に得られる企業は価値を創造する」というものです。近年の実証分析として、Blotnick (2025)は米国小売企業などのケース研究を交え、成長率とROICの関係を調べています。その結果、「成長自体はそれが資本コストを上回るリターンで投資されない限り価値を生まない」こと、逆に「高いROICで再投資できる企業の成長は株価パフォーマンスに直結する」ことが示されていますpapers.ssrn.com。例えば、Appleやウォルマートの歴史的分析では、単なる売上成長よりも高い投下資本利益率を維持しながらの成長が長期的な株主価値をもたらしたとされていますpapers.ssrn.com。また経営コンサルティング会社マッキンゼーのバリュエーション手法でも、「企業価値=投下資本×(ROIC - WACC)/WACC」といった永続価値モデルが提示されており、ROICがWACC(資本コスト)を上回ることで企業は経済的付加価値(EVA)を創出すると説明しています。実務的レポートでは、「持続的に高ROICを達成する企業はPERなどのバリュエーション指標でもプレミアムが付く」financierworldwide.comとか、「ROICが低い企業は有望な投資機会が限られ成長余地も小さい」kennedycapital.comといった指摘があります。papers.ssrn.com実証研究でも、産業横断的に見てROICが高く成長機会の多い企業ほど株式の時価総額が高くなる傾向が確認されています。ただし因果関係には注意が必要で、高いROIC企業だから株価が高いのか、将来の成長期待を株価が織り込んでいるから現在のROICも高く見えるのかの分析もなされています。総合すると、資本効率指標(ROEやROIC)は企業価値の重要なドライバーであり、特に近年の日本では「ROE8%目標」のように資本効率改善が経営目標として掲げられるようになっています。これに関連して、余剰資金の適切な株主還元や不採算事業からの撤退など、資本の配分見直しが企業価値向上策として重視される傾向が強まっています。
3. ESG・ステークホルダー資本主義と企業価値の関係に関する研究動向
近年、ESG(環境・社会・ガバナンス)投資やステークホルダー資本主義が台頭する中で、「株主価値最大化」と「ステークホルダーの利益」との関係が学術的・実務的に大きな関心事となっています。2020年代以降、このテーマに関する研究は飛躍的に増加しており、ESGと企業の財務パフォーマンスの相関や、ステークホルダー重視経営が企業価値に与える影響について多くのデータが蓄積されています。
まず、ESGと財務的業績の関連については、近年のメタ分析が概ね肯定的な結果を示しています。NYU Stern大学の**Whelanら(2021)による1000本以上の学術論文のメタ研究では、約58%の分析でESGと企業財務パフォーマンスに正の関係が認められ、8%のみが負の関係を報告しました(残りは中立的または混合)governance-intelligence.com。投資リターンの観点でも、ESG投資は伝統的投資と同等かそれ以上のパフォーマンスを示すケースが多く、59%の投資研究が「ESGポートフォリオは従来型と同等以上のリターン」と結論付け、負の結果は14%にとどまったとされていますgovernance-intelligence.com。これらの結果は、「少なくともESGに取り組むことは株主価値を損なわない。むしろ長期ではリスク低減や効率向上を通じてプラスに作用し得る」ことを示唆します。また、このメタ分析では「ESGの効果は時間が経つほど顕在化する」「ネガティブ・スクリーン(悪業排除)より積極的なESG統合戦略の方が有効」「ESGは特に経済危機時に下方リスクを抑制する」等の傾向も指摘されていますgovernance-intelligence.com。さらに、企業レベルでは「サステナビリティへの取り組みがリスク管理やイノベーションを通じて業績向上に寄与する」**との証拠も多数報告されており、ESGは単なるコストではなく競争力強化の一環と捉えられるようになってきましたgovernance-intelligence.com。
具体的な実証研究としては、**Edmans (2011)**が「従業員満足度の高い企業はそうでない企業を長期的に株式リターンでアウトパフォームする」ことを示し、従業員というステークホルダーへの配慮が株主にも利益をもたらすとしました。また、**Friede, Busch & Bassen (2015)**は約2000件の研究を統合し、ESGと企業財務指標との関係は概ね非負(90%近くが中立または正)であると報告しています。さらに近年注目すべきは、Wharton校のESG分析ラボとFCLTGlobalの共同研究 (Babcock, Henisz 他 2022)です。この研究「Walking the Talk: Valuing a Multi-Stakeholder Strategy」では、3,000社以上の企業年次報告をテキスト分析してステークホルダー重視の言及度合いを測り、財務・ESG実績との関係を調べています。その結果、マルチステークホルダー戦略(利害関係者を重視する経営)を「有言実行」している企業は、そうでない企業に比べてROIC(投下資本利益率)が3年間で4%ポイント高く、売上成長率も1.5%高いことが示されましたnews.wharton.upenn.edu。加えて、これら企業は収益の変動が小さく(ROICのボラティリティが9%低減)、長期志向(R&D投資比率が2倍、長期業績見通しの開示も50%多い)である点も報告されていますnews.wharton.upenn.edunews.wharton.upenn.edu。研究チームは「ステークホルダー志向と財務パフォーマンスには好循環があり、ESG要因への配慮はイデオロギーではなく経済合理性に根差したものだ」と結論づけていますnews.wharton.upenn.edu。このような実証結果は、従来の「株主価値 vs 社会価値」という対立的な見方ではなく、ステークホルダーへの配慮が長期的には株主価値を強化し得るという「両利きの戦略」を支持するものです。
もっとも、ステークホルダー資本主義の台頭に対しては懐疑的な見解も存在します。ハーバード大学のBebchuk & Tallarita (2020)は「The Illusory Promise of Stakeholder Governance」において、2019年の米ビジネスラウンドテーブルによる「株主以外も含めた企業目的の宣言」以降高まったステークホルダー至上論を批判していますcorpgov.law.harvard.educorpgov.law.harvard.edu。彼らの分析によれば、「ステークホルダー重視」を掲げても実際には経営陣の裁量が増すだけで、利害関係者への具体的な保護は強化されないと指摘しますcorpgov.law.harvard.educorpgov.law.harvard.edu。過去の経営者の行動をデータ検証したところ、「経営者は自由裁量があっても自発的に従業員や環境の利益を犠牲にしない選択をする保証はない」こと、むしろステークホルダー主義は経営者の株主に対する責任を曖昧にし、結果的に企業業績を損ないうると結論づけていますcorpgov.law.harvard.edu。また、ステークホルダー重視の風潮が「経営者が自ら社会問題を解決してくれる」という幻想を生み、必要な法規制や制度改革を遅らせる弊害にも言及していますcorpgov.law.harvard.edu。この議論は**「ステークホルダー資本主義の約束は幻に過ぎない」と挑発的に表現され、学界や実務で大きな反響を呼びました。それに対して、ロンドン・ビジネススクールのAlex Edmans (2021)などは「Jensen & Mecklingの本旨も短期利益ではなく長期的な株主価値=株主福利の最大化であり、従業員や顧客を大切にすることと矛盾しない」と述べ、ステークホルダー重視を株主価値向上の手段(Enlightened Shareholder Value)として捉える立場を示していますblogs.law.ox.ac.uk。現代の研究潮流では、「株主価値最大化 vs ステークホルダー重視」の二項対立を乗り越え、両者を統合する企業目的のあり方**が模索されています。たとえば、**Hart & Zingales (2017)**は企業の目的を「株主の福利最大化」と再定義すべきと提言し、株主自身が環境や社会への配慮を望むならそれを反映する経営判断(例:有害な利益機会の放棄)も正当化されると論じました。一方で、**Ferrarini (2023)**は「Firm Value vs Social Value」の論考で、企業価値と社会価値のトレードオフを正面から扱い、ガバナンス改革やソフトローによって企業行動に社会的目的を統合する必要性を説いていますecgi.global。このように、ESG・ステークホルダーと企業価値の関係は現在進行形で研究が深化している分野であり、学術的にも実務的にもホットトピックとなっています。
4. 日本企業特有の課題と企業価値向上の事例研究
日本企業における企業価値(株主価値)向上の文脈は、海外とは異なる特殊要因や近年の改革の歴史とともに語る必要があります。伝統的に日本企業は株主よりも従業員や取引先銀行などステークホルダーを重視する経営を行ってきたとされ、自己資本利益率(ROE)や時価総額の水準が海外同業と比べ低い傾向が指摘されてきましたmeti.go.jp。背景には、メインバンク制や企業間の**持ち合い株式(クロスシェアホールディング)**による安定株主構造、終身雇用や年功序列といった雇用慣行、過剰な現預金保有などの要因があり、これらが経営者に対する市場の規律を弱め資本効率の低さにつながったと分析されています。実際、バブル崩壊後の長期低迷期には、多くの日本企業でPBR(株価純資産倍率)が1倍を下回り、「解散価値にも満たない」と揶揄されるケースも少なくありませんでした。
こうした状況を打開すべく、2010年代から日本でもコーポレートガバナンス改革が相次ぎました。2014年には金融庁主導でスチュワードシップ・コード(機関投資家による建設的対話の原則)が導入され、翌2015年には東京証券取引所がコーポレートガバナンス・コードを施行し上場企業にガバナンス強化を促しました(社外取締役の選任や持ち合い解消の促進等を原則化)。経済産業省の**伊藤レポート (2014)**では「ROE8%を一つの目安」として日本企業の資本効率改善目標が掲げられ、企業価値向上のための経営指標としてROEが広く注目されるようになりました。当時の提言では「日本企業は稼ぐ力(earning power)の強化によって中長期的な企業価値を高めるべき」とされており、その後も収益力と資本効率向上が政策的な課題となっていますmeti.go.jp。
こうした改革の成果として、日本企業の平均ROEは2010年代半ばにかけて徐々に上昇し、持ち合い株比率も減少する傾向がみられました。しかし依然として欧米に見劣りする部分も多く、課題は残っています。例えば内部留保の増大による過剰な現金保有は引き続き問題視され、2023年には東証がPBR1倍割れ企業に対し「資本コストと株価を意識した経営」を求める異例の要請を行いましたam.jpmorgan.com。この動きを受けて、2024年には上場企業による自社株買いや増配の発表が相次ぎ、株主還元額が過去最高を記録していますam.jpmorgan.com。また一部企業では「余剰資金を削減しバランスシートを効率化する」と明言して大型の特別配当を実施する例も出てきましたam.jpmorgan.com。もっとも、そうした株主還元に踏み切った企業はまだ例外的で、多くの企業はなお現預金を積み上げているのが実情ですam.jpmorgan.com。その結果、日本企業全体のROEはこの10年で改善したものの概ね10%前後で頭打ちとなっており、自己資本の増大(利益剰余金の積み上げ)が収益伸長を相殺している面がありますam.jpmorgan.com。
ガバナンス改革の側面では、取締役会の独立性向上や経営陣の多様性確保が進みました。東証ガバナンス・コードの改訂(2018年・2021年)でプライム市場企業に独立社外取締役を3分の1以上選任することが求められ、2022年時点で独立社外取締役が取締役会の過半数を占める企業も増加しています。また金融庁や東証は親子上場の解消や政策保有株の縮減にも言及し、実際に大手保険会社3社が「持ち合い株を順次売却する」と宣言するなど、クロスシェアホールディングの解消が加速していますam.jpmorgan.com。RIETIの研究**(白石ほか 2019)**では、世界56か国を対象にスチュワードシップ・コード導入の効果を検証し、「機関投資家のエンゲージメント強化により、機関投資家比率の高い企業ほどバリュエーションが向上する」ことを示していますrieti.go.jp。日本においても2014年のコード導入以降、機関投資家による議決権行使や対話が活発化し、実際に業績不振企業のCEO解任例が増えるなど成果が表れています。株主総会での動向を見ると、業績やガバナンスの悪い企業ほど取締役選任議案に対する反対票が増加しており、特にROEが5%未満の低収益企業では経営トップへの支持率が著しく低下する傾向が報告されていますam.jpmorgan.com。これは株主の目が厳しくなりつつある証左であり、こうしたプレッシャーを受けて増配や社外取締役追加を表明する企業も出てきましたam.jpmorgan.com。
さらに、日本特有の動きとして企業の事業再編・ポートフォリオ見直しが挙げられます。近年、プライベートエクイティファンドやアクティビスト(物言う株主)の存在感が増し、収益性の低い事業の切り離しや非中核事業の売却が促されていますam.jpmorgan.comam.jpmorgan.com。好例として日立製作所は2000年代後半に22社もの上場子会社を抱え巨額赤字に陥っていましたが、その後積極的な事業整理を行い、2008年に22社あった上場子会社をすべて売却して事業を選別しましたam.jpmorgan.com。その結果、現在ではグリーンエネルギー・鉄道、ITサービスといった中核分野に集中した効率的経営体となり、直近5年間の株価は年率18.6%の上昇を遂げていますam.jpmorgan.com。また化学大手のJSRは2021年に低採算の合成ゴム事業から撤退し、2024年には海外ファンドによる買収(完全非上場化)に至りましたam.jpmorgan.com。このケースでは、事業ポートフォリオの大胆な見直しが企業価値評価を高め、結果的に株式市場から退出する形で株主価値が実現されたと言えます。これらは**「日本企業にもアクティビストの手法やPEファンドの圧力で米欧型の企業価値向上策が広がりつつある」ことを示す事例です。東証も2023年以降、低PBR企業リストの公表やTOPIX構成銘柄の基準見直し(2025~2028年に時価総額要件を引き上げ1000社超が除外見込み)など、市場を通じた企業の淘汰圧力を強めていますam.jpmorgan.comam.jpmorgan.com。これらの動きは、日本市場全体で「資本市場を活用した企業価値向上」**を促すものと言え、長年の課題であった低収益・低評価状態からの脱却を目指す改革として注目されています。
もっとも、日本企業の課題は依然残ります。例えば上場企業数の多さ(東証プライム市場でも質のばらつきが大きい)、社内留保の志向、社長交代の消極性、取締役会の多様性不足などです。しかし全体としては、コーポレートガバナンス改革と資本効率重視の機運が企業行動を変えつつあり、日本企業特有の低PBR問題にも風穴が開き始めたと言えるでしょう。経産省の**「伊藤レポート3.0(2022年)」では「サステナビリティと企業価値の同時追求(SX:サステナビリティ・トランスフォーメーション)」が提唱されており、気候変動や人権課題への対応を通じて長期的な稼ぐ力を高める戦略が示されていますmeti.go.jpmeti.go.jp。このように、日本でもESGと企業価値向上を両立する取り組み**が重視され始めており、従来の株主価値最大化論に新たな視点が加わりつつあります。
5. 最新の研究テーマ・トレンド(2020年以降)
2020年代に入り、企業価値最大化に関連する研究・議論はさらに多様化しています。特に以下のような新しい潮流が顕著です。
-
企業目的(Purpose)と価値最大化の再定義: 2019年の米ビジネスラウンドテーブル声明(企業の目的を「すべてのステークホルダーへの価値提供」に変更)以降、「企業の存在目的は何か」が世界的に議論されています。経営学・法律学の分野では、伝統的な株主至上モデルに代わる概念として「ステークホルダー主義」や「株主福利の最大化」が提案されました。前述のHart & Zingales (2017)やMayer (2018)の提言はその例で、企業が株主の長期的幸福や社会的価値を考慮すべきとします。一方、Bebchuk & Tallarita (2020)のように新たなステークホルダー路線に警鐘を鳴らす研究も登場し、コーポレートガバナンスのあり方をめぐる思想的対立が活発化していますcorpgov.law.harvard.edu。最新の文献では、「取締役の受託者責任(fiduciary duty)を拡張すべきか」「社外からの規制で企業の社会的責任を担保すべきか」といった論点が掘り下げられていますecgi.global。この流れはEUにおけるサステナビリティ開示規則やアメリカの公益法人(Benefit Corporation)制度の拡大など制度面にも波及しており、企業価値の概念自体を広義化する動きとも関連しています。
-
ESG定量評価とリスクプレミアム: ESGに関するビッグデータやAI分析の進展により、ESG要素を定量的に評価して企業価値やリスクに与える影響を測る研究が増えています。例えば、気候変動リスクと株価の関係について、炭素排出量の多い企業ほど株式の必要収益率(リスクプレミアム)が高くなるとの実証結果が得られています(投資家が将来の規制リスク等を織り込むため)governance-intelligence.com。他方で、積極的に気候対応戦略を取る企業は資本コストが低下するとの報告もあり、マーケットは企業のESG対応度合いを価値評価に織り込みつつあるようですmdpi.com。また、**ESG評価のばらつき(Rating divergence)**が投資判断を複雑にしている点も研究され、ESG評価基準の標準化や「何が企業価値にとって本質的なESG課題か(マテリアリティ)」の検証が進んでいますacademic.oup.com。
-
人的資本・多様性と企業価値: 従業員の多様性や企業文化といった無形資産が企業価値に与える影響も重要なテーマです。近年は、取締役会のジェンダー多様性や従業員エンゲージメント指数などを用いて、人的資本投資が長期的な生産性やイノベーションを促し企業価値を高めることを示す研究が増えています。たとえば、**一橋大学の吉本(2020)**は日本企業を対象に、女性役員比率の高い企業はROAやTOB時のプレミアムで優位性が見られると報告しています。また、人的資本開示スコアと株価パフォーマンスに正の相関があるとの海外研究もあり、投資家が企業の人材戦略を価値評価に織り込んでいる可能性が示唆されています。
-
短期志向 vs 長期志向の実証分析: 四半期資本主義とも言われる短期志向が企業価値に与える負の影響を定量化する試みも進んでいます。Bushee (1998)の研究以来、短期保有の投資家が多い企業ほど研究開発費を削減しがちである等のエビデンスがありましたが、近年は持続的な長期投資(R&DやDX投資など)が市場から肯定的に評価される事例も増えています。COVID-19下で従業員や取引先を重視した企業がパンデミック後にブランド価値や業績回復で優位に立つケースも観察され、短期利益より長期信頼を選ぶ経営判断の価値が見直されています。この文脈で、企業価値評価モデルに**「企業のレジリエンス(耐久力)」や「オーセンティシティ(企業の信念)」**といった定性的要因を組み込む試みも台頭しています。
-
市場構造の変化と価値評価: 最後に、2020年代の低金利から高インフレ・金利上昇への転換は企業価値評価に大きな影響を及ぼしています。割引率の上昇は理論上企業価値を押し下げますが、一方でインフレ環境下で価格転嫁力のある企業は価値を相対的に高めています。実証的にも、無形資産型企業やプラットフォーム企業は伝統的価値評価尺度(PERやPBR)では測りにくく、投資家も将来キャッシュフローの成長性をより重視する傾向が顕著です。学術研究でも、デジタル経済におけるネットワーク効果やスケールメリットが企業価値形成に与える影響が分析されており、新たな評価モデルの模索(ユーザーベース評価やエコシステム価値など)が行われています。
以上のように、企業価値最大化に関する最新の研究テーマは、単なる財務戦略にとどまらず経営の質・目的・持続可能性と広がりを見せています。重要論文の著者・年とともに要点をまとめると以下の通りです。
-
Modigliani, F. & Miller, M. (1958) 「The Cost of Capital, Corporation Finance and the Theory of Investment」 – 資本構成は企業価値に中立(M&M定理)aeaweb.org。投資は企業の市場価値を高めるものに限るべきaeaweb.org。
-
Jensen, M. & Meckling, W. (1976) 「Theory of the Firm: Managerial Behavior, Agency Costs and Ownership Structure」 – 企業は契約の束。所有と経営の分離はエージェンシーコストを生み、放置すれば価値最大化から乖離promarket.org。経営者の私的利益追求を抑えるガバナンスの重要性を提起。
-
Jensen, M. (2001) 「Value Maximization, Stakeholder Theory, and the Corporate Objective Function」 – 複数目的の同時最大化は不可能。長期的な企業価値最大化を唯一の目標としつつ、啓蒙された価値最大化の概念でステークホルダーとの調和を図るhbs.eduhbs.edu。
-
Gompers, P., Ishii, J. & Metrick, A. (2003) 「Corporate Governance and Equity Prices」 – ガバナンスと企業価値の実証研究。株主権利の強い企業ほどトービンのQが高く、株主リターンも優れるnber.org。ガバナンス改善が価値向上に繋がることを初めて大規模に示した。
-
Morck, R., Shleifer, A. & Vishny, R. (1988) 「Management Ownership and Market Valuation」 – 経営者の持株比率と企業価値の関係は逆U字型(持株増加で価値向上するが一定以上で経営者の自己保身が強まり価値低下)。経営者の所有インセンティブの適正水準を示唆。
-
Friede, G., Busch, T. & Bassen, A. (2015) – 2000本超の文献レビューでESGと企業財務の関係を分析。約90%の研究がESGと財務パフォーマンスに中立または正の関係と結論付け、ESG投資は投資妙味を損ねないと総括。
-
Whelan, T., et al. (2021) 「ESG and Financial Performance: Aggregated Evidence from 1000+ Studies」 – 2015~2020年の文献メタ分析。企業ベースで58%がESGと財務に正相関、投資ベースで59%がESGで同等以上のリターンgovernance-intelligence.com。長期でESGのメリットが顕在化と示唆governance-intelligence.com。
-
Bebchuk, L. & Tallarita, R. (2020) 「The Illusory Promise of Stakeholder Governance」 – ステークホルダー資本主義批判。経営者の裁量拡大による弊害を指摘し、ステークホルダー利益は経営者任せでは守られないと主張corpgov.law.harvard.edu。
-
Henisz, W. et al. (2022) 「Walking the Talk: Valuing a Multi-Stakeholder Strategy」 – ステークホルダー重視と企業業績の分析。マルチステークホルダー戦略を実践する企業はROICや成長・安定性で優れるnews.wharton.upenn.edu。ステークホルダー対応が長期的に株主価値を高める「Win-Win」を実証。
-
白石裕太郎ほか (2019) 「Stewardship Code, Institutional Investors, and Firm Value」(RIETI DP 19-E-077) – スチュワードシップ・コード導入の国際比較。コード導入後、機関投資家比率の高い企業ほど企業価値(トービンのQ)が有意に上昇し、フリーキャッシュフロー問題が緩和rieti.go.jp。日本の2014年コードの効果を裏付ける。
-
伊藤邦雄 (2014) 『伊藤レポート「持続的成長と企業価値創造のためのROE改革」』 – 日本企業にROE8%以上を提言し、資本効率経営への転換点となった政策報告。以降のガバナンス改革の指針に。
-
伊藤邦雄 (2022) 『伊藤レポート3.0(SX編)』 – サステナビリティと企業価値向上の統合(SX)のコンセプトを提示。長期的な稼ぐ力強化にESG要素を組み込むべきと強調meti.go.jpmeti.go.jp。
以上、企業価値最大化をめぐる理論から最新動向まで概観しました。古典的理論は株主利益の最大化が企業経営の指南原理であると説き、多くの実証研究がガバナンスや資本効率の改善が企業価値を高めることを示してきました。一方で近年は、ステークホルダーの重要性や持続可能性への対応が無視できない要素となりつつあります。最新の研究は**「長期的な企業価値最大化」と「ステークホルダー価値・社会価値」の調和**をテーマに進展しており、企業価値の概念はより包括的な方向へ変容しつつあると言えるでしょう。
References (主要出典): Modigliani & Miller (1958); Jensen & Meckling (1976); Friedman (1970); Jensen (2001); Gompers et al. (2003); Morck et al. (1988); Friede et al. (2015); Whelan et al. (2021); Bebchuk & Tallarita (2020); Henisz et al. (2022); 白石ほか (2019, RIETI); 伊藤レポート (2014, 2022)aeaweb.orgaeaweb.orgpromarket.orghbs.eduhbs.edunber.orgpapers.ssrn.comgovernance-intelligence.comnews.wharton.upenn.educorpgov.law.harvard.edurieti.go.jpmeti.go.jp。(※各文献の詳細は文中の引用箇所にて言及)





