何年も前のことになるが、私は息子のスティーブンにデレゲーション(人に仕事を任せること)を行なって、おもしろい経験をしたことがある。
家族会議を開き、ミッション・ステートメントを復習するために家族全員が集合した。
大きな紙に、私たちの目標とそれを達成するために必要な作業を列挙してみた。そして、それぞれの作業を実施するために希望者を募った。
「家のローンを払ってくれる人は」と訊いてみた。
手を上げたのは私だけだった。
「保険、食料、車の支払いは」
私がひとりで仕事を独占する状態だった。
「赤ちゃんの食事は」
興味を示した者はいたが、しかるべき資格を持っていたのは妻だけであった。
このようにしてリストをひとつずつ追っていくと、私と妻は一週間に60時間以上もの仕事を持っていることが分かった。これを通して、子供たちは家事を違う視点から見ることができた。
当時7歳だった息子のスティーブンが、庭の手入れをすると申し出た。そこで、私は実際にその仕事を息子に任せる前に、徹底した訓練を行なうことにした。まず、手入れの行き届いた庭とはどういうものか、はっきりと想像できるようになってほしかったので、近所の庭に連れて行った。
「ほら、見てごらん。ここの芝生は緑で清潔だろう。こういう芝生がほしいんだ。”緑”で”清潔”。わが家の芝生を見てごらん。茶色と緑が入り交じっているだろう。違うのはここだ。これは緑じゃない。欲しいのは緑で清潔な芝生だ。どういうふうにして緑にするかは君次第だ。どうやってもいいけど、緑のペンキを塗ってはだめだ。分かるかい。パパだったらどうするかを教えてあげようか」
「パパだったらどうするの」
「パパだったらスプリンクラーを使うね。でも君はバケツで水を運ぶか、ホースでまくか、それとも一日中ここに立ってツバを吐くか、それは君の好きにしていい。色が緑になれば、それでいいんだよ。いいね」
「うん。分かった」
「じゃあ、次は清潔ということについて話してみよう。清潔とは、ゴミがないという意味だ。紙くず、ひも、犬の噛(か)む骨、小枝などが、芝生の上に散らかっていないことだ。じゃ、こうしよう。今、庭の半分だけ整理して、その違いを見てみよう」
私はゴミ袋を取ってくると、庭の半分だけ掃除した。
「こっち側を見てごらん。あっちも見てごらん。全然違うだろう。これが清潔な状態だ」
「ちょっと待って、あのやぶの後ろに紙くずがあるよ」と息子が言った。
「ああ、いいところに気がついたね。パパは見落としていた。いい目をしているじゃないか」
私は続けた。
「それでは、この仕事を引き受けるかどうかを君が決める前に、あと二つか三つ話しておかなければならないことがある。なぜかといえば、この仕事を君がいったん引き受けたらパパはもうこの仕事をしないからね。この仕事は君の仕事だ。君の責任になる。この仕事を実行する君を信用する、ということだ。君のボスは誰かな」
「パパでしょう」
「違う。パパじゃない。君が君のボスになる。いつもパパやママにしつこく小言を言われるのをどう思う」
「嫌だよ」
「パパもママも同じだ。嫌な気持ちになる。だから、君が君のボスだよ。君を手伝うのは誰だか分かるかな」
「誰?」
「パパだよ。君がパパのボスになる」
「僕がパパのボスなの?」
「そうだよ。だけど、パパの時間は限られている。出張もある。でも家にいるときだったら、どう手伝ってほしいか言ってくれれば、手伝ってあげるよ」
「分かった」
「誰が君の仕事を評価するのかな」
「誰?」
「君が自分自身の仕事を評価するんだよ」
「本当に?」
「そうだよ。週に二回、一緒に庭を歩いてみる。そして君が状況を報告する。どうやって君はそれを評価するのかな」
「緑で清潔かどうか」
「そうだ」
息子が本当にこの仕事を引き受ける準備ができたと思うようになるまで、私はこの”緑”と”清潔”という二つの言葉を二週間かけて教え続けた。そして、やがて大事な日がやってきた。
「いいかい」
「うん、いいよ」
「仕事は何なのかな」
「緑で清潔」
「緑とは?」
息子はわが家の庭を見た。そして隣の庭を指さして、
「あの芝生の色だよ」と言った。
「清潔とは?」
「散らかっていないこと」
「ボスは?」
「僕」
「手伝うのは?」
「パパ。時間があるとき」
「評価するのは?」
「僕。週に二回、一緒に庭を歩いて僕が状況を見せる」
「何を見るのかな」
「緑で清潔」
その時は別に小遣いの話はしなかったが、そうした責任に報酬をつけることに何ら異存はなかった。
二週間かけて二つの言葉を教えた。そして、息子は準備ができていると思った。
合意したのは土曜日だった。しかし、その日彼は何もしなかった。そして日曜日も同様だった。月曜日もさっぱり。火曜日の朝、車に乗って車庫から出たとたん私が目にしたしたのは、黄ばんで散らかった庭と、昇り始める七月の暑い太陽であった。「今日はきっとやるだろう」と私は思った。土曜日は合意をつくった日だったし、日曜日はほかにも大切なことがいろいろあったから、まあ、仕方なかった。でも、月曜日は何ら言い訳がきかない。そして、もう火曜日だ。今日はきっとやるだろう。夏休みでもあったし、ほかに特別することはないはずだ。私はそう思って仕事に出かけた。
そして、家に帰ってどうなっているかを見たくて、一日中うずうずしていた。しかし、夕方、角を曲がって私が目にしたのは、朝と全く変わらないありさまであった。しかも、息子は道の向こう側の公園で遊んでいた。
許せなかった。二週間の訓練と約束した後の息子の振る舞いに対して、腹が立ってくると同時にがっかりした。これまでプライドを持って、その芝生に多くの労力やお金を注ぎこんできたにもかかわらず、それがすべて水の泡になることは目に見えていた。そのうえ、隣の庭は完璧に手入れされていて美しい状況だったので、恥ずかしくも感じていた。
もう待てない。使い走りのデレゲーション(人に仕事を任せること)に戻りたい、という気持ちになっていた。「スティーブン、ここに来てすぐこのゴミを拾いなさい」、そう言えば、黄金の卵が確保できるということは分かっていた。でも、ガチョウはどうなるだろうか。彼の心からの決意は、どうなるだろうか。
そこで、私はつくり笑いをしながら、道の向こう側に向かって叫んだ。
「おーい。スティーブン、元気かい」
「うん。元気だよ」
「芝生はどうだい」
私はそう言った瞬間、息子との合意に違反したことに気づいた。責任に対する報告はそうした形でやることにはなっていなかったし、そういう約束でもなかった。だから彼もまた、合意を破ってもいいと感じてしまった。
「うまくいっているよ」と、彼は返事した。
私は唇を噛(か)んで、夕食が終わるのを待った。そして、「スティーブン。約束したように一緒に庭を歩いてみよう。君の仕事がうまくいっているかどうかを、見せてもらいたい」と言った。
扉に向かいながら、息子の唇が震え始めた。目には涙があふれてきて、庭の真ん中に出た時は、めそめそ泣いていた。
「パパ、難しいよ」
「何が難しいんだ」私は頭の中で思っていた。「まだ何ひとつやっていないじゃないか」でも私には、何が難しいのか、よく分かっていた。難しいのは自己管理、つまり自分自身を律することなのだ。だからこう言った。
「何か手伝えることはあるかな」
「手伝ってくれるの?パパ」と息子は、べそをかきながら訊いた。
「約束ではどうなっていたかな」
「時間があれば助けてくれるって言った」
「時間はあるよ」
息子はそう言うと、土曜日の夜のバーベキューパーティーのゴミを指さした。
「見ただけでゲロしちゃいそうなんだ」
私はそれを拾った。頼まれたとおりにした。その時、彼は心の中で合意に調印した。それは彼の庭、彼の芝生、彼の仕事と責任になったのである。彼はその後、夏の終わりまでに二、三回しか私の助けを求めなかった。彼は芝生の手入れをした。私の責任だったとき以上に、緑で清潔な芝生が保たれた。ほかの兄弟たちが紙くず一枚でも彼の庭に落とそうものなら、兄弟たちに注意した。
信頼は人間にとって究極の動機づけである。それは人の最善の姿を引き出すものである。しかし、それには時間と忍耐が必要だ。そして、人はその信頼に応えられるレベルまで能力を引き上げるための訓練が、必要になることもある。
デレゲーション(人に仕事を任せること)が正しく行なわれれば、双方が得をし、より多くの仕事がより少ない時間で達成できる、と私は確信している。家族の中でも、効果的にデレゲーション(人に仕事を任せること)をすれば、すべての必要な作業は、一日一時間でできると思う。しかし、それを実際に行なうには
、生産するだけでなく、管理する能力が必要になる。集中するのは能率ではなく、効果性なのだ。
もちろん、あなたは子供よりうまく部屋の掃除ができるだろう。でも鍵になるのは、子供が自分で主体的に掃除できるように子供の力を引き出すことである。そのためには、時間もかかるし、訓練と能力開発もしなければならない。しかし、後にこの時間の投資は大変価値のあるものになり、長期において大きな節約となる。
このアプローチは、人と仕事を進める全く新しいパラダイムである。それはお互いの関係を実質的に転換させ、責任を引き受けた相手は、自分が自らのボスになり、「望む結果」に対する決意と自らの良心によって管理される。同時に、「望む結果」を達成するために、正しい原則の範囲内で必要な、ありとあらゆる行動をとるための創造的なエネルギーを自ら引き出すのである。
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