私たちは、見返りを求めずに無条件の愛という形で預け入れを行なうとき、愛の基礎的な法則を守っていることになる。
そうした行為で私たちは、相手に安定感と安全な気持ちを感じさせる。そして相手は自分自身の本来の価値を感じることができ、自分の真のアイデンティティーを肯定されたことになる。
愛は相手の自然な成長を促進させ、人生の基礎的な法則(協力・貢献・自制・誠実)に沿って生活する動機づけになる。
相手は自分の本来の可能性を発見し、発揮することができるようになる。それは、こちらの弱点に反応するのではなく、自身の内的価値観に沿って生活する自由を、私たちが相手に与えるからである。しかし、ここで勘違いしてはならない。無条件で人を愛するということは、すべきでない行動を容認したり甘くなったりするということではない。甘い行動や態度自体は、大きな引き出しとなる。私たちがすべきことは、相手の相談に応じ、話をし、そして
「制限」と「結果」の範囲をきちんと設定することである。そして、無条件に相手を愛することなのだ。
「愛の基礎的な法則」に違反したり、愛に条件をつけたりするとき、相手は「人生の基礎的な法則」に違反する気持ちになる。
相手を反応的かつ防衛的な立場に追い込むと、相手は、自分が価値ある人間であること、自立している人間であることを証明しなければならないと感じるようになるからである。
しかし、実際はそうした態度をとる人々は自立しているのではなく、「反対依存状態」にいるのである。この状態は、成長の連続体でいうところの最も低い位置にある依存状態のもうひとつの形なのだ。この状態にいる人は反応的であり、主体的に人の話を聞いたり自分の内的な方向性や価値観に従うよりも、まるで敵中心の人のように、自分の権利や立場を守ったり、自分の独自性を主張したりする以外のことは考えられなくなる。
人が反抗的になるのは、頭の問題ではなく心の問題である。そして心の問題を解く鍵は、信頼残高の預け入れをすることであり、相手に無条件の愛を示すことである。
私のある友人は、由緒ある大学で学部長を努めていた。彼は、自分の息子がその大学に入学できるように何年にもわたって計画を立て、貯金もし、頑張ってきた。ところが、入試の時期に至って、息子は受験することを拒んだ。
父親である友人は、とても心を痛めた。その大学を卒業することは息子にとって大きなプラスになるだろうし、またそれが彼の家の伝統でもあった。彼の家は三代にわたってその大学を卒業していた。父親は、あるときは嘆願したり、またあるときは説得したり、口を酸っぱくして言い聞かせた。最後には、考えを改めてくれることを期待しながら、息子の話に耳を傾け理解しようとしたこともあった。
しかし、この父親の対応の裏側に潜んでいたのは、「条件つきの愛」であった。息子が感じとったのは、父親にとって、自分はひとりの人間としてよりもその大学に行くことの方が価値があり、大切なのだということであった。彼はそれを脅威に感じた。だから反発し、自分のアイデンティティーを守ろうとした。そして、父親の態度を理由にして、その大学を受験しないという決意をさらに強め、それを正当化したのだった。
やがて、この父親は自分の態度を深く反省し、しかるべき犠牲を払うことにした。彼は条件つきの愛を捨てることを決意した。息子は父親の望まない道を選ぶかもしれないということも理解した。しかし、息子がどういう選択をしようともそれと関係なく、彼は、妻と共に無条件に息子を愛することに決めた。彼ら夫婦は、その大学で得られる教育体験を本当に大事に思っていたし、息子が生まれたときからそのための計画を立て、貯金もしていたので、その決断はとても苦しいものであった。
二人は、脚本を書き直す難しいプロセスを始めた。そして、無条件の愛の本当の意味を理解するように努めた。自分たちは何をしているのか、なぜそうしているのかを、息子にも説明した。息子がどう選択しようとも彼に対する愛には変わることはないと、正直に言える段階に至ったとき、それも息子に話した。それは息子を操るためのテクニックでも、その行動を正そうとするものでもなかった。それは彼らの人格の成長線上のごく自然な表現であった。
息子は当初、その話にあまり反応を示さなかった。しかし、彼らは無条件の愛のパラダイムを強く心に持つことができていたので、息子に対する気持ち自体に影響はなかった。一週間後、息子はやはりその大学には行かないと宣言した。両親はすでにこの答を受け入れる用意ができていたので、無条件の愛を示し続けた。すべては解決済みの問題であり、生活は普段どおり続いた。
その後、しばらくして、興味深いことが起きた。息子は、自分の立場を弁護する必要性がなくなったので、自分自身の心の中をじっくりと見つめ始めたのだった。すると彼の中に、その大学で勉強したいという気持ちが出てきたのである。彼はその旨を父親に話した。父親はここでまた無条件の愛を示し、息子の結論を受けとめた。彼は嬉しかった。しかし、過剰反応することはなかった。なぜなら、本当に無条件の愛を学んでいたからである。
ダグ・ハマーショルド元国連事務総長は、とても意味深い言葉を述べている。
「大衆の救いのために勤勉に働くより、ひとりの人のために全身を捧げる方が気高いのである」
この言葉の意味は、次のようなものだと思う。一日8時間、あるいは10時間とか12時間、毎週六、七日をかけて多くの仕事やプロジェクトに時間を投入しながらも、自分の夫・妻、息子、あるいは最も身近な職場の同僚との間に、深い有意義な人間関係ができていないことがある。だとすれば、その多くの仕事やプロジェクトを進めるよりも、そのひとりの人間との関係を修復することの方が、より高潔な人格(謙虚さ・勇気・力)が要求されるということである。
多くの組織のコンサルタントとして25年間活動をしてきた中で、この言葉の真理に何度も感動を覚えた。組織が抱える問題の多くは、トップ・マネジメント層における人間関係の問題に起因している。二人のオーナーの人間関係、株主と社長、あるいは社長と専務の関係など。そうした問題に直面し解決をはかることの方が、多くのプロジェクトや仕事に労力を投入するより、はるかに高い人格を必要とするのである。
私がはじめてこのタグ・ハマーショルドの言葉に出会ったのは、私と私の右腕だった人物との間に大きな期待像の食い違いが発生していたときであった。簡単に言ってしまえば、「役割」や「目標」に関する期待、価値観、管理手法などが異なっており、その相違点に直面するだけの勇気が、私になかったのである。そのために何か月も妥協しながら、その難しい衝突を避けて通ろうとしていた。その間中、お互い悪感情を溜め込んでいく一方であった。
この「大衆の救いのために勤勉に働くより、ひとりの人のために全身を捧げる方が気高いのである」という言葉を読み、深く感動して、彼との関係をつくり直す決意を固めた。
これから取り組む難問のために、私は自らの意志を固める必要があった。本当にその問題に取り組み、深い相互理解を得るのは安易なことではない、と考えていたからである。その話し合いが近づくにつれて、私は身震いするほどだった。彼は気難しく、考え方も硬直的で、いつも自分の方が正しいと思っているように私には見えていた。しかし、それと同時に、私は彼の才能と能力を必要としていた。二人が衝突すればお互いの関係が崩れ、彼を組織から失うのではないかとひどく不安に思っていた。
私は、その話し合いの場面を頭の中に思い浮かべて、実際と同じようにリハーサルを繰り返した。そして、言葉やテクニックなどではなく、どういう原則をその状況に適用するべきかを考えたとき、やっとどうにか落ち着くことができた。そして、心のうちに平安を保ち、話し合いに臨む勇気が出てきたのだった。
やがて、私は話し合いのために、彼と対面することになった。ところが驚いたことに、どうやら彼も全く同じようなプロセスを経験していたのだ。そして、このような話し合いが持たれることを切に願っていたのであった。彼の考え方は、私が思っていたほど硬直的なものでも、防衛的なものでもなかった。
違っていたのは私たちの管理スタイルであり、組織全体がその違いから悪影響を受けていたのだった。私たちは、二人の相違点と不一致が生み出している問題について、お互いに認め合った。そして、その後も話し合いを続けることにより、様々な深い問題と向き合い、自分たちの気持ちを表に出しながら、尊敬し合う精神でそれらをひとつずつ解決していった。このプロセスによって、私たちは力強い相互補完的なチームをつくることができた。と同時に、お互いの友情が増し、一緒に協力して働く能力が著しく向上したのである。
効果的に会社を運営し、幸せな家庭を営むための調和をつくり出すためには、大きな注意と勇気が必要である。人間関係をつくる過程においては、いかなる技術によっても、管理のスキルによっても、大衆のために働く努力によっても、人格の欠如を補うことはできない。ひとりひとりに対して愛と人生の基礎的な法則を守ることが、必要不可欠なのである。
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