僕はこのブログを何千万と稼ぐための礎にしようなんて思っていた時期もありました。
それがいつの間にか月10万でいい、5万でいい、1円でいいなんて具合に理想がだんだん低くなっていきました。
いまでは「諦める」という言葉が頭をよぎりますが、いままで費やしてきた時間の事を考えると、俺はなんて無駄な時間を過ごしたのかという後悔で身を引くことが出来ず絶望感が襲ってきます。
いままで自分が費やしてきたものが無になる。失った時間の大きさにうちひしがれる。。。虚無感を感じています。
そんな心理状態の中で、知らない土地に引っ越ししました。
今ではタイミングが悪かったかなと思っています。周りにはどんな店があるのかな。
なんて、店舗を探す探究心よりも、探すのめんどいはボケっていうストレスの方がかなり上をいっています。ストレスは電灯の振動音にイラつくくらい溜ってます。
で、今回の経験を通して感じたことは、あきらめた時に絶望を感じるなと!!
そのワードを使って あきらめた時 絶望 でネット検索したらこんなのが出てきたので、絶望を感じているあなたにこれを送ります。
何かに絶望したとする。その何かは、他人から見れば全然大したことじゃない。絶望を共有する人は他人ではないから、絶望は他人から見れば大したことじゃないのだ。しかし他人がどう思おうと、その何かは自分にとってすごく重要なことである。自分にとって重要なことじゃないのにいちいち絶望したりはしない。自分としてはそれがすごく切実な問題だからこそ絶望したりもするのだ。他人から見れば大したことじゃなくても、自分にとって大事なものは大事なのである。絶望なんていうものを感じたときは、まずそのことをはっきりさせる必要がある。
何かを望むというのは未来について考えることである。今はまだ実現していないからそれを望むのだ。そして、その望みが将来実現しないだろうと予測するのが絶望するということだ。実現しないだろうと考えた時に、自分の予測を信じる人はあきらめるのである。その場合、あきらめることによって「実現しない」という予測を自分で実現させてしまうことになる。あきらめたら実現しないのは当り前だ。
絶望してあきらめる時点では「実現しない」という未来はまだやってきていない。我々が絶望するのは未来に対してであり、過去に対して絶望することはできないのだから、絶望は「まだ全てが終わったわけではない」ことの証拠である。そして、あきらめるということは、それまではあきらめていなかったのである。つまり、「絶望してあきらめる」時にはまだ可能性はあるしあきらめてもいないのだ。絶望している場合の「望み」というやつは自分にとってすごく大事なことなのだから、「他人から見れば大したことじゃない」とか「可能性が低い」というアタマで考えた理由であきらめない方がいい。
あきらめないとしたら、「アタマでは無理だとは思うけれども、無理じゃないと仮定してカラダは努力する」ということになる。実現に向けて努力するには絶望的な現実をクールに見なくてはならない。現実をクールに見ていると、今まで気付かなかった可能性を発見したり予想外のことが起きたりして、思ったよりうまくいくこともある。「自分にとってすごく大事なこと」が思ったよりうまくいくのはとても気分がいいことである。それは「絶望」と「あきらめ」の間にあるのだ。
まぁ僕の方は、結局後50年くらいは続ける覚悟でいますよ。金溜ったらやりたい事を列挙します。これが叶うまではあがき続けようという感じでいます!!(いまはね)
- マイナー競技のアスリートに競技強化費として大金を寄付する
- 色んな競技のアスリートのコンサルを受ける
- 地元のJのチームに寄付する
- 各都道府県に拠点としてマンションをかりる
- 温泉旅館を梯子しまくる
- 親にIpadをあげて、毎月僕のクレカで5万だけ使わせてあげる
まぁ将来やりたいことはこれぐらいにしといて、さよなら。
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