ターンアラウンド・フォー・チルドレンについてタフ氏が最も面白いと思っているのは、BAMとは異なり、人間関係という“道具箱”だけでなく学習指導という“道具箱“として、教室での本題、つまり教えることと学ぶことも使っている点だと言っています。2015年の春、彼はブロンクスの第45中学校を訪れたそうです。ターンアラウンドが一年間活動してきた、最貧困地域の公立学校です。最初の数カ月は、ソーシャルワーカーが差し迫ったニーズのある生徒を特定して心のケアのサービスを受けるよう促し、一方、教室運営のコーチは教師の指導に集中したそうです。コーチは教師に対して、生徒への期待や守ってほしいルールをきちんと伝える方法、規則違反には相応の結果が伴うことを周知させる方法、対立を鎮静化させる方法などを指導しました。しかしその後、校内がある程度おちつくと、コーチらは「協同学習」を奨励することに焦点を合わせました。これは学習の過程に生徒の参加を求める教育学のアプローチです。講義の時間を減らし、ワークシートでの反復作業も減らし、小グループでの活動に時間を使って、問題を解いたり、討論をしたり、長期間かけて何かをつくるプロジェクトに何人かで取り組んだりするというものです。
ここで用いる“道具箱”は、私は保育にも使えると思っていることが、私が最近提案していることです。それは、“人間関係”を使った共同学習です。そして、これを行う上での困難さには、それは、自律性を重視するという点で、同様なことが見られます。ターンアラウンドのコーチの話では、第45中学の多くの教師にとって「協同学習」を受けいれるほうが、新しいクラス運営の戦略を取りいれるよりも難題だったと言っています。学習にあたって自律性を重視するというのは、管理をゆるめる、つまり教室の手綱を引き渡すことでもあるからです。最貧困地域のほかの教員とおなじく、第45中学の教師たちも、ここほど荒れた学校では支配的で断固とした管理が教室におちつきと秩序を保つ唯一の方法であり、手綱を引き渡すなど混乱を招くだけだと信じていたからです。ターンアラウンドのコーチらは、何カ月にもわたる研修や、教室の観察、一対一の対話などを通して教員を説得しました。自律性を経験させ、学習にみずから深く関わるチャンスを生徒たちに与えることで、教室の空気は乱れることなく、むしろおちついたものになるのだと納得させたのです。
自律性重視の原則は、タフ氏が2015年春に訪ねたべつの学校の教員には即座に受けいれられたそうです。シカゴのウエストサイドにある「ポラリス・チャーター・アカデミー」です。ポラリスは、全国的な非営利団体であるELエデュケーションと提携しています。この団体はエクスペデュショナリ―・ラーニングと呼ばれる探検学習の名で知られていましたが、前年の10月に名称を改めています。エデュケーションの提携校は150を超え、それぞれの学校の背景もさまざまです。都市部にも地方にもあり、自主運営のチャーター・スクールも従来型の公立学校もあり、貧困地域にも中流の地域にもあるそうです。ELのネットワークのなかでも、ポラリスはとくに貧困層の生徒の多い学校だそうです。幼稚園児から8年生までが通う学校で、91パーセントの生徒に無料の昼食、もしくは昼食の補助金の受給資格があるそうです。学校の所在地周辺、ウエスト・ハンボルト・パークは、犯罪率も失業率も貧困率も高い地区です。
タフ氏はここ何年かのあいだに、シカゴとワシントンDCとニューョーク市にあるの学校を訪ねたそうです。El型モデルを何度も調査したのは、ELがターンアラウンドとおなじく、人間関係と学習指導という二つの“道具箱”を使っているからでした。
人間関係の側面で最も重要なのは「クルー」と呼ばれる制度で、生徒たちはグループ単位で数年にわたって一緒に話し合いをしたり助言を受けたりします。このEL型のモデルは、25年前にハーバード教育学大学院と「アウトワード・バウンドUSA」との共同研究から生まれたそうです。アウトワード・バウンドの原則である、共有された課題を通して自信と知識を育てることは、いまもEL型モデルの中心部分に残っています。アウトワード・バウンドの創設者、クルト・ハーンは、「われわれは乗組員だ、乗客ではない」というスローガンで有名で、ELの「クルー」もこの言葉から取った名前だそうです。Elの生徒は全員がどこかのクルーの一員となり、クルー単位で毎日30分ほど顔を合わせて、勉強のことや個人的なことなど、生徒にとって大事な問題について話をします。ミドル・スクールやハイ・スクールになると、10人から15人ほどの比較的仲のいい子どもたちでクルーをつくります。クルーのメンバーは二年間、ときにはそれより長いあいだ替わらず、担当の教師も毎年おなじです。その結果、ELの多くの生徒にとって、学校のなかでクルーが最も帰属意識の持てる場所になります。一部の生徒にとっては、学校だけに限らず生活全般における唯一の居場所にもなるのです。
ポラリスを訪ねた朝、タフ氏は6年生のクルーのミーティングに同席したそうです。担当はモリー・ブレイディ、この学校に勤めて6年になる教師でした。月曜日、三週間の休みが明けた初日で、ブレイディはまず生徒たちに、円のなかを歩いて隣りあった人と挨拶や握手をし、休みはどうだったか尋ねるようにいったのです。その質問への答えは「緑」か「黄色」か「赤」。それぞれ「よかった」「まあまあ」「ひどかった」の意味です。ここの生徒たちはタフ氏がシカゴでBAMの活動を見学したクレメンテの教室の生徒たちより5歳下でしたが、BAMと多くの点で共通点があったそうです。敬意があり、堅苦しくなく打ち解けた様子で、会話は当面の関心事と、大きな問題である、「理想を実現するにはどうしたらいいか?」「ポラリスを卒業したらどうしたい?」というあいだを行ったり来たりしました。
プレイディの率いるこのクルーが活動をはじめてから、もう三年になるそうです。あとでプレイディと話したところ、この三年でメンバー自身やクルー内の力学についてかなり深く理解したので、日々の活動を生徒たちの特定のニーズに合わせて調整できるようになった、と説明してくれたそうです。ある少年は、この年ポラリスに転校してきたばかりでした。校長室に押し入ったためにまえの学校を退学になったのです。プレイディによれば、彼はポラリスではまえよりうまくやっているけれど、トラブルの経験を完全には払拭できていませんでした。彼との挨拶と握手のときにも、春休みは「赤」だったと、静かな声で報告したのは彼だけだったそうです。プレイディはその答えはとくに気にしませんでしたが、念のため彼と気の合いそうな少年とペアを組ませ、クルーのミーティングのあとに呼びとめて話しかけ、彼が大丈夫なことを確認したそうです。
クルーは、支えてくれる人間関係で生徒を包もうという、ELの戦略の中心をなす制度です。しかしタフ氏が見たところ、Elの手法においてさらに重要な要素は教育学的側面、つまり特徴的な学習指導の実践のなかにあります。ポラリスやほかのの提携校の授業は、アメリカのふつうの公立学校の教室よりも、生徒の参加を求める双方向のやりとりが多くなるようにつくってあります。生徒の議論や、大小のグループ活動が非常に多いのです。教師が会話を先導することはありますが、一方的に講義をする時間はほかの公立高校の教師たちよりもずっと少ないのです。ELの生徒たちは手の抜けない厳しい課題を長時間かけてやりとげ、教師や同級生からの批評をもとに、それを何度も大々的に改良します。多くの場合、課題はグループで協力して取り組み、クラス全体、学校全体、あるいは地域社会に向けての発表によって完結します。それに加え、可能なかぎり評価も自分たちで責任を持っておこないます。年に二回、成績表の出る時期が来ると、親やほかの家族が生徒主導の発表会に参加するために学校にやってきます。発表会では、5歳以上の生徒がみなその学期にやりとげたことや苦労したことを親や教師に向けて話すのです。
ELのカリキュラムや実践を導くのは、教育部門の責任者、ロン・バーガーです。バーガーは、公立学校の教師として働いたり、マサチューセッツ州の田舎で教育コンサルタントをしたりして25年を過ごした後、ELに加わったそうです。そして逆境のなかで育った生徒を多く抱えるポラリスのような提携校には特別な思い入れがあるそうです。バーガーの説明によれば、こうした感情はバーガー自身の子ども時代における、不安定で混乱した家庭で四人の兄弟とともに育った体験に根差していると言います。「逆境の代償は大きかった」とバーガーは言います。兄弟のなかには、大人になってから難題や危機に直面した、あるいはいまも直面している者もいると言います。結果として、不安定な家庭が引き起こすストレスやトラウマがどのように子どもの発達を揺るがし阻害するかは、直接の体験として知っているし、子どもたちが幼少期の挫折から回復するには正しい支援が不可欠だと理解している、とバーガーはタフ氏に話したそうです。
ELの提携校が生徒の成績に大いにプラスの影響をもたらしていることは、独立機関による研究でも明らかです。マセマティカ政策研究所による2013年の研究では、ELが提携する都市部のミドル・スクール5校の生徒を、同等のほかの学校の生徒と比較したところ、三年間で数学では10カ月分、読解では7カ月分、提携校のほうが進んでいることがわかったそうです。また、ELの教育は低所得層の生徒たちに対してより大きなプラスの効果があることもわかったそうです。
バーガーはこれを意外には思わなかったと言います。EL型モデルが逆境に育った子どもたちに対し、なぜ効くのか、どのように効くのかははっきりわかっていたと言います。「情緒面が損なわれると、子どもはさまざまなやり方でそれを自分のアイデンティティに取りこんでしまいます。内にこもって自分を守ろうとする子どももいますし、タフガイの殻をまとって学校では態度を硬化させる子どももいます。いすれにせよ、そういう子どもたちはクラスで貢献することができなくなるのです。議論に参加することも、手を挙げることも、勉強に関心を示すこともできなくなる。情熱とか、反応とか、そういったものをすべて抑えこんでしまう。学校で思いきって何かをやってみることができないのです。思いきってやってみなければ、学ふことはできません」そういう行動には覚えがある、まさに自分が子どものときにやったことだから、とバーガーは言っています。バーガーは、自分の家で何が起こっているか、学校の人間にはいっさい知らせません。ふたつの世界を完全に切り離していたのです。学校に行きはしたし、勉強もやるにはやりましたが、ずっとうわの空だったのです。
「EL提携校の生徒たちは、私がしたような隠し事はできない」とバーガーは言っています。クルーが生徒たちを殻から引きだし、教室では、毎日のようにグループ討論や共同の課題があるため、クラスメートや教師とやりとりすることを強いられます。やがてそうしたやりとりが自然なことに感じられるようになります。タフ氏が昨春、アッパー・マンハッタンにあるELのべつの提携校である「ワシントンハイツELスクールを訪れたときには、どのクラスも、生徒全員の参加を要する複雑な議論や創造的な課題に取り組んでいました。7年生のあるクラスの社会科の授業では、生徒たちは四人ずつのグループに分かれ、グループごとにマジックベンで大きなポスターを書いていたそうです。生徒たちは連邦党と共和党に分かれて1790年代の憲法をめぐる議論をすることになっており、自分たちの党のピジョンを支持するスローガンでポスターを埋め尽くし、全体討論に備えていました。教師は机から机へと静かに歩きまわって質問やアドハイスをしましたが、大部分は生徒が自分たちで進めていました。これがアメリカの歴史を勉強しているミドル・スクールの生徒だとは。彼らが心から楽しんでいるように見えることに、タフ氏は感銘を受けたそうです。
彼らはニューヨーク市の公立学校のなかでも最貧困に分類される生徒たちです。ワシントンハイツELスクールでは100パーセントの生徒が、家族の収入が連邦の基準を下回るために昼食の曲助金を受けており、99パ―セントがラテン系かアフリカ系です。人口統計的に見れば、大都市のミドル・スクールやハイ・スクールのなかでは行動に問題のある落ちこぼれと見なされる層です。しかしこの日の社会科の授業では複雑な題材の学習に取り組んでおり、行動にもなんの問題もありませんでした。そしてそれは報奨によって動機づけされてるからでも、罰によって脅されているからでもなく、学校が、少なくともこの授業時間のあいだは、面白いからだったからです。
EL提携校の教員と管理者たちは、性格についての話をたくさんするそうです。「性格」は彼らにとって非認知能力と同義なのです。ELの考え方では、性格は講義や教師からの直接の指示によってつくられるのではなく、やりがいのある学習作業を粘り強くやりとげた経験によってつくられると考えられているのです。バーガーは、「子どもたちにもっと自信を持ちなさいとか、知的な胆力を持ちなさいと話すだけで“性格を教える”ことはできません。子どもどもたちが性格を学びとるには、サポートを受けながら、思いきってやってみることを継続的に強いられる必要があります。作業を親とともにこなしたり、グループで一緒に勉強をしたり、クラス全員のまえで話をしたり、完成したものを発表したり。このようなクラスへの参加を求められると、生徒たちは、最初は緊張したり、わめいたり、助けを求めたりする。しかしやがて自信がついて、自分でやるようになる。そういうチャンスが性格をつくりあげるのです」と言っています。
タフ氏は、これこそが、ELの提携校で起こっている変化のなかで最も意義深いイノベーションであるように思っていると言います。ストレスに満ちた子ども時代の影響に取り組もうとするとき、概して学校が頼る最初の、そして唯一の“道具箱”は「人間関係」だと言います。確かに、学校での深く親しい人間関係から生じる絆、帰属意識は必要なのですが、それだけでは足りないというのが決定的な見方だと言います。生徒が本心から学校に興味を持つためには、生徒はこう思う必要があると言います。「自分は重要な活動をしているのだ、深く、手ごわく、やりがいのある活動をしているのだ」と。
意義ある難題に出会い、乗りこえることは、学業への前向きなマインドセットであり、それは、カミーユ・ファリントンのいう、「私はこれを成功させることができる」「私の能力は努力によって伸びる」というようなマインドをつくるうえで決定的な要素だといいます。いや、それどころか、子どもたちの心のありようを、とりわけ貧困層の子どもたちのポジティブな心のありようを最も効果的に生みだす方法でもあるというのです。解決方法のわからない問題に出会い、苦労してそれに取り組み、たいていチームメイトに助けられたり、教師からのサポートを受けたりしながら、最後には答えを出す。そういう瞬間を経験するチャンスがあれば、しなやかな心について抽象的な、あるいは理論的な説明をする必要もないと言うのです。生徒たちはみずからの体験によって、自分の脳が努力や苦労を通じて育つことに確信を抱くようになるのだとタフ氏はいいます。
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