岐阜県岐阜市の歴史全体の調査
古代・中世の起源と地域名称の変遷
岐阜市の地域には太古から人々が暮らしていました。市内各地で旧石器時代から縄文時代の遺跡が見つかっており、紀元前13000年頃には日野遺跡でナイフ形石器が使用されていた形跡がありますcity.gifu.lg.jp。飛鳥時代には美濃国(現在の岐阜県南部)が成立し、壬申の乱(672年)では美濃の豪族たちが活躍したと伝えられますcity.gifu.lg.jp。中世になるとこの地は美濃源氏や土岐氏といった武家勢力の支配下に置かれました。鎌倉時代初期の建仁年間(1201~1204年)には、二階堂行政(にかいどうゆきまさ)によって現在の金華山(当時は稲葉山)に稲葉山城(のちの岐阜城)の築城が始まったとされますja.wikipedia.org。室町時代には美濃守護職を土岐氏が世襲しましたが、16世紀半ばに至り美濃国内で下剋上が起こります。家臣の斎藤道三(元の長井規秀)が主君の土岐頼芸を追放し、1542年に美濃一円を平定して稲葉山に本拠を構えましたja.wikipedia.org。道三は稲葉山山頂に稲葉山城を築き、その麓に**井ノ口(いのくち)**と呼ばれる城下町を整備していますja.wikipedia.org。この「井ノ口」が後の岐阜市中心部の前身で、中世における地域名称として記録に残っています。なお道三の菩提寺である常在寺(岐阜市長良)には、道三と子の義龍の墓所や肖像画(国重文)が現存し、戦国期の歴史を今に伝える史跡となっていますja.wikipedia.org。
戦国時代:斎藤道三・織田信長と岐阜城の興隆
金華山(稲葉山)の山頂に建つ現在の岐阜城天守。戦国時代、この城をめぐり斎藤氏と織田信長が攻防を繰り広げたja.wikipedia.orgja.wikipedia.org。現在の天守は1956年に復興されたもの。
斎藤道三の台頭によって美濃国の拠点となった稲葉山城(井ノ口)でしたが、道三は長男の斎藤義龍と不和になり、弘治2年(1556年)の長良川の戦いで討たれますcity.gifu.lg.jp。まもなく義龍も病没し、孫の斎藤龍興が後を継ぎましたが一族の勢力は衰退していきましたja.wikipedia.org。この好機を捉えた尾張の織田信長は、美濃侵攻を進めて永禄10年(1567年)稲葉山城を攻略し、斎藤龍興を放逐しますcity.gifu.lg.jp。信長は稲葉山城下の地名「井ノ口」を改めることを決め、当時の僧侶・沢彦宗恩(たくげん そうおん)の進言を参考に**「岐阜」と命名しましたja.wikipedia.org。この新しい地名「岐阜」には、中国古代の周の文王が岐山から興った故事や、孔子の故郷である曲阜になぞらえ天下統一をめざす意図が込められたとされますja.wikipedia.org。同時に稲葉山の名前も金華山と改められ、現在に至っていますja.wikipedia.org。信長は稲葉山城を岐阜城**と改名し、天下布武の拠点としました。以後約10年間(1567~1576年)信長は岐阜に居住し、岐阜城下町を本格的に整備しますcity.gifu.lg.jp。信長は座という特権的な商人組合を廃止し、楽市楽座による自由な市場経済を導入しました。その結果、岐阜の経済は織田政権の勢力拡大の中心地として大いに発展し、宣教師ルイス・フロイスは当時の繁栄ぶりを「賑やかなバビロニアのようだ」と記していますja.wikipedia.org。城下には南蛮文化ももたらされ、永禄12年(1569年)にはポルトガル人宣教師が来訪し布教を行った記録がありますcity.gifu.lg.jp。
信長は天正4年(1576年)に本拠を近江の安土城へ移しましたcity.gifu.lg.jpが、岐阜には織田家の重臣や一族が引き続き統治を担いました。信長没後、岐阜城は孫の織田秀信(信長の嫡孫)が継承します。しかし関ヶ原合戦の直前、秀信は西軍(石田三成方)に与したため、慶長5年(1600年)8月に東軍の徳川勢の攻撃を受けて岐阜城は落城しましたcity.gifu.lg.jp。戦後、徳川家康は美濃国における拠点を山城から平地へ移す方針をとり、岐阜城は廃城と決定されますja.wikipedia.org。岐阜城の建物や石垣は取り壊され、その資材を用いて慶長7年(1602年)から加納城(現在の岐阜市加納地区)の築城が開始されましたcity.gifu.lg.jpja.wikipedia.org。以後、江戸時代を通じて岐阜城跡は城として使われることはなくなります(現在山頂に建つ天守は昭和31年〈1956年〉再建)。岐阜という地名は城と運命を共にせず残り、信長ゆかりの町名として後世に伝わっていきましたchimeijiten.com。
《戦国時代の主な出来事と史跡》
年代(期間) | 出来事・トピック | 関連する史跡・資料館など |
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1542年(天文11年) | 斎藤道三が美濃国を統一し稲葉山城を築城、城下町井ノ口を整備ja.wikipedia.org。 | 常在寺(道三・義龍の墓所、肖像画)ja.wikipedia.org |
1567年(永禄10年) | 織田信長が稲葉山城を攻略し入城。井ノ口を「岐阜」と改称ja.wikipedia.org。 | 岐阜城跡(国史跡)、信長公居館跡(岐阜公園内、発掘調査継続)city.gifu.lg.jp |
1568–1576年 | 信長が岐阜城下で楽市楽座を実施、市場経済が発展ja.wikipedia.org。宣教師フロイスが「岐阜はバビロニアのよう」と記述ja.wikipedia.org。 | 岐阜市歴史博物館(楽市楽座の史料を展示)、岐阜教会跡碑(フロイス来訪ゆかり) |
1600年(慶長5年) | 織田秀信が西軍に属し岐阜城籠城。東軍の攻撃で落城、岐阜城廃絶city.gifu.lg.jp。 | 岐阜城跡(石碑・説明板)、加納城跡(加納天満宮周辺に石碑) |
江戸時代:藩政と商業の発展
関ヶ原合戦後、岐阜は徳川幕府の直轄地を経て尾張徳川家の所領に組み込まれました。慶長5年(1600年)戦後まもなく加納城に奥平信昌が入封し10万石を治めましたが、元和5年(1619年)には尾張藩領となり、岐阜町(旧井ノ口の町)は尾張藩によって支配されますcity.gifu.lg.jp。幕府の一国一城令(1615年)により美濃国内の城は加納城1つに定められ、岐阜城は正式に廃城となりましたja.wikipedia.org。尾張藩は岐阜に岐阜奉行所(岐阜陣屋)を設置し、代官・奉行が治めていますchimeijiten.com。これにより岐阜町は城下町から陣屋町として存続し、江戸時代を通じて美濃北部の行政と経済の中心地となりました。
交通の面では、江戸幕府が整備した五街道の一つ中山道が美濃国を縦断し、元和年間までに加納城下に加納宿が置かれますja.wikipedia.org。加納宿は美濃国内最大の宿場町となり、岐阜町と一体となって商人や旅人で賑わいましたja.wikipedia.org。また長良川渡河の要衝として、川沿いに河渡宿(ごうどじゅく)も設けられ、長良川の渡し船で東西の往来が盛んになりますja.wikipedia.org。商業の発展も著しく、特産品として美濃和傘(岐阜和傘)や提灯、扇子などの伝統工芸品が生産され始めたのもこの頃ですja.wikipedia.org。岐阜町の商人たちは尾張藩の庇護の下で繁盛し、定期市や年貢米の集積地としても機能しました。元禄期には上方との取引で富裕な商家も現れています。文化面では元禄元年(1688年)に俳人松尾芭蕉が岐阜を訪れ、妙照寺に滞在して長良川の鵜飼見物を楽しんだ記録があり、岐阜の鵜飼漁は江戸時代を通じて各地に知られる観光的な行事でしたcity.gifu.lg.jp。天保3年(1832年)には岐阜町の正法寺に高さ約13.7mの岐阜大仏(乾漆仏)が完成し、町の名所となっていますcity.gifu.lg.jp(現在も岐阜大仏として市民や観光客に親しまれる文化財です)。このように江戸時代の岐阜は、尾張藩のもとで商工業や交通の要地として発展し、多くの史跡や伝統が今に受け継がれました。
《江戸時代の主な出来事と史跡》
年代 | 出来事・発展 | 関連する史跡・名所 |
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1601–1619年 | 岐阜町が尾張藩領となり、岐阜陣屋を設置chimeijiten.com。加納城下に加納宿を開設ja.wikipedia.org。 | 岐阜陣屋跡(岐阜市役所付近に碑)、加納宿跡(加納地区に碑) |
1688年(元禄元年) | 松尾芭蕉が岐阜を訪問し長良川の鵜飼を見物city.gifu.lg.jp。 | 長良川鵜飼(現在も毎年開催)、鵜飼観覧船乗り場(長良川畔) |
18世紀~ | 美濃和傘・提灯などの伝統工芸が発達、宿場町として繁栄ja.wikipedia.org。 | 川原町界隈(川湊と町家が残る古い町並み)、和傘・提灯の老舗 |
1832年(天保3年) | 正法寺の岐阜大仏(乾漆仏)が完成city.gifu.lg.jp。 | 岐阜大仏(正法寺で公開、県指定文化財) |
明治維新以降:市制施行と近代化への歩み
明治維新後、廃藩置県により岐阜の街も大きな転換期を迎えます。明治4年(1871年)に美濃国全域が岐阜県として統合され、県庁は当初羽栗郡笠松町に置かれましたchimeijiten.com。その後県庁は厚見郡今泉村(現在の司町付近)に移され、岐阜の町が県行政の中心となりますchimeijiten.com。明治22年(1889年)7月1日、岐阜町ほか5村の合併により岐阜市が発足し、市制が施行されましたcity.gifu.lg.jp。当時の人口は約2万5,750人、戸数5,150戸で、市役所は西野町に設置され初代市長に熊谷孫六郎が就任していますcity.gifu.lg.jp。近代都市としての歩みが始まった岐阜市でしたが、その矢先に濃尾地震が襲います。明治24年(1891年)10月28日、マグニチュード8.0級の直下型地震で市街地は壊滅的被害を受けました。岐阜市内だけで死者245名・負傷者1,260名、家屋全半壊3,993戸・全半焼2,343戸にのぼり、市域の約37%が焼失したと記録されていますja.wikipedia.org。この未曾有の被害にもめげず、市民と行政は復興に尽力し、市街地は復旧・再建されていきました。明治後期になると産業や交通の近代化も進みます。明治15年(1882年)には自由民権運動の演説旅行で訪れた板垣退助が岐阜公園内の演説場で暴漢に襲われ負傷する事件がありましたcity.gifu.lg.jp(これを契機に自由民権運動が盛り上がり、「板垣死すとも自由は死せず」の名言が広まります)。明治21年(1888年)には旧城跡一帯を整備して岐阜公園が開園し、市民の憩いの場となりましたcity.gifu.lg.jp。明治29年(1896年)には昆虫学者の名和靖が岐阜公園内に名和昆虫研究所(現・名和昆虫博物館)を設立しており、これは日本最古の私設博物館として現在も昆虫標本を展示していますcity.gifu.lg.jp。こうした文化施設の誕生は、岐阜が学術・文化の面でも発展していったことを示すエピソードです。
大正時代から昭和初期にかけても岐阜市の都市化は加速しました。市域の拡大も進み、明治後半から昭和初期にかけて周辺の町村を次々に編入しています(例:1903年上加納村、1932年長良村、1940年加納町などを合併)ja.wikipedia.orgja.wikipedia.org。昭和に入ると市の人口も増え、商工業も発展しました。昭和2年(1927年)には長良川の鵜飼観覧船事業を市が直営化し、観光産業にも力を入れ始めますcity.gifu.lg.jp。昭和10年(1935年)までに名古屋鉄道(名鉄)が新岐阜駅(現・名鉄岐阜駅)から名古屋までの鉄道路線を全通させ、岐阜~名古屋間の交通利便性が飛躍的に向上しましたcity.gifu.lg.jp。そして昭和11年(1936年)春には岐阜公園と長良川畔を会場に躍進日本大博覧会が開催されますja.wikipedia.org。この博覧会は当時の日本で後期に行われた大規模博覧会の一つで、全国から約250万人の入場者を集める成功を収めましたja.wikipedia.org。それに合わせ市内にはインフラ整備や記念建造物の建設が行われ、近代都市・岐阜の繁栄ぶりを示す出来事となりました。昭和初期の岐阜市は、産業面では繊維業や製紙業、軍需関連工場なども立地し、中京工業地帯の一角をなす都市へ成長していきました。
《明治~昭和前期の主な出来事》
年代 | 出来事・施策・災害 | 補足・影響 |
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1889年(明治22年) | 岐阜市が発足(人口2.5万人)city.gifu.lg.jp。 | 岐阜町ほか6町村を合併、市制施行city.gifu.lg.jp |
1891年(明治24年) | 濃尾地震が発生、市街地の8割が焼失ja.wikipedia.org。 | 壊滅的被害からの復興事業を実施 |
1903~1940年(明治36~昭和15年) | 周辺町村を順次編入、市域拡大ja.wikipedia.orgja.wikipedia.org。 | 面積拡大と人口増加(商工業労働力の確保) |
1936年(昭和11年) | 躍進日本大博覧会を開催ja.wikipedia.org。 | 総入場者数約250万人、戦前期最大級の博覧会 |
1937年(昭和12年)~ | 日中戦争・太平洋戦争下で軍需工場が立地、都市化進行。 | 川崎航空岐阜工場など進出(空襲の標的にも) |
第二次世界大戦と戦後復興
第二次世界大戦中、岐阜市も戦禍に見舞われました。とりわけ岐阜空襲では大きな被害を受けています。昭和20年(1945年)7月9日の未明、アメリカ軍B29爆撃機による焼夷弾攻撃で市街地の約80%が焼け野原となりましたcity.gifu.lg.jp。この空襲により岐阜市では863名もの尊い命が失われ、負傷者520名、焼失家屋は2万戸以上にのぼりましたja.wikipedia.org。戦後、岐阜市はゼロからの復興に挑みます。敗戦直後の混乱期には岐阜駅前に引揚者らが立ち上げたハルピン街(闇市)が出現し、物資不足の中で市民生活を支えるマーケットとなりましたcity.gifu.lg.jp。やがて高度経済成長期に入ると、行政主導で戦災復興土地区画整理事業やインフラ整備が本格化し、市街地は見事に復興を遂げます。昭和24年(1949年)には岐阜大学が開学し、昭和25年には市営バス運行開始、昭和31年には市立女子短期大学(現岐阜市立大学)開学など、教育・公共サービスも充実していきましたcity.gifu.lg.jpcity.gifu.lg.jp。また戦後の自治体再編で周辺町村との合併が相次ぎ、岐阜市は面積・人口とも飛躍的に拡大します。特に1950年(昭和25年)には稲葉郡方県村・黒野村・茜部村など6村を、1955年には鏡島村・厚見村を、1958年には日置江村・芥見村を編入するなど、1950年代だけで十数村町との合併が行われましたja.wikipedia.orgja.wikipedia.org(詳細は後述の年表参照)。この結果、岐阜市の人口は急増し、1960年(昭和35年)の国勢調査で30万人都市となりcity.gifu.lg.jp、1975年(昭和50年)には40万人を突破しましたcity.gifu.lg.jp。戦災から立ち直った岐阜市は、中京圏有数の都市へと発展したのです。
復興期の象徴的な出来事としては、岐阜城の再建が挙げられます。焼失から約350年を経た昭和31年(1956年)、市民有志の募金などにより金華山山頂に岐阜城天守がコンクリート造で復興されましたcity.gifu.lg.jp。往時の天守を模した外観のこの建物は、郷土の誇りとして親しまれ、現在は城内が資料館となっています。また昭和39年(1964年)には長良川に金華橋が開通しcity.gifu.lg.jp、昭和40年(1965年)には岐阜県で国民体育大会(岐阜国体)が開催されるなどcity.gifu.lg.jp、社会基盤の整備や全国的イベントの開催が相次ぎました。昭和48年(1973年)には岐阜市民憲章が制定され、市民意識の高揚が図られますcity.gifu.lg.jpja.wikipedia.org。しかし同年7月、繁華街・柳ヶ瀬で大規模な火災(柳ヶ瀬大火)が発生し110軒が焼失する惨事もありましたja.wikipedia.org。これも市民の力で乗り越えられ、その後柳ヶ瀬地区は再興されています。昭和50年代には国際交流にも積極的に取り組み、1978年にイタリア・フィレンツェ市と、1979年に中国・杭州市とそれぞれ姉妹都市提携を結びましたcity.gifu.lg.jp。昭和63年(1988年)には市制100周年を迎え、記念事業としてぎふ中部未来博覧会(地方博)が開催されるなどcity.gifu.lg.jp、戦後復興を成し遂げた岐阜市はさらなる発展の時代へと歩み出しました。
《昭和後期~平成期の主な出来事》
年代(昭和~平成) | 出来事・トピック | 補足 |
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1945年(昭和20年) | 岐阜空襲により市街地の大半を焼失ja.wikipedia.org。 | 戦後の都市計画で区画整理・復興を実施 |
1950年代 | 周辺の村との合併を推進、多くの町村を編入ja.wikipedia.org。 | 市域拡大(2006年にも柳津町を編入)city.gifu.lg.jp |
1956年(昭和31年) | 岐阜城天守閣を再建city.gifu.lg.jp。 | 市民の寄付による復興天守(現在は資料館) |
1965年(昭和40年) | 岐阜国体(第20回国民体育大会)開催city.gifu.lg.jp。 | スポーツを通じ全国に復興アピール |
1988年(昭和63年) | 市制100周年。「未来博」を開催city.gifu.lg.jp。 | 入場者約418万人、平成への発展の契機 |
現代:平成以降の市域拡大と文化・観光の発展
平成時代から令和にかけて、岐阜市はさらに発展と変革を遂げています。平成の大合併期には近隣自治体との合併構想があり、最終的に羽島郡柳津町が岐阜市に編入されました(平成18年・2006年1月1日)city.gifu.lg.jp。この合併により市域が南西方向に広がり、人口は約41万人となっています。行政面では2000年代に岐阜市が中核市に指定され(1995年)city.gifu.lg.jp、地域の中枢都市としての機能を強化しました。令和元年(2019年)には市制130周年を迎え、記念式典が開催されていますcity.gifu.lg.jp。
文化・観光の分野でも施設整備が進みました。昭和59年(1984年)に岐阜市文化センター、昭和60年(1985年)に岐阜市歴史博物館が相次いで開館し、市民文化の拠点となりましたcity.gifu.lg.jp。平成7年(1995年)には長良川沿いに国際会議場が完成しcity.gifu.lg.jp、国内外のイベント誘致にも寄与しています。平成27年(2015年)には複合文化施設であるみんなの森 ぎふメディアコスモス(図書館・ギャラリー等から成る)が開館し、市民の学びと交流の場として人気を博していますcity.gifu.lg.jp。また長良川の鵜飼漁は国の重要無形民俗文化財に指定され(2015年)city.gifu.lg.jp、伝統文化として国内外から注目を集めています。同じ2015年には、信長公時代の城下町としての歴史的魅力が評価され、岐阜市の文化遺産群「『信長公のおもてなし」が息づく戦国城下町・岐阜』が日本遺産第1号に認定されましたcity.gifu.lg.jp。これにより岐阜城や岐阜まつり、岐阜提灯・和傘など戦国時代から続く文化が統一的に発信され、観光資源として活用されています。平成29年(2017年)には信長公岐阜入城・岐阜命名450年の節目を迎え、岐阜市主催で「信長公450プロジェクト」という年間を通じた記念イベントが開催されましたcity.gifu.lg.jp。このような取組により、市民の郷土愛と歴史への誇りが一層高まっています。
現在、岐阜市は歴史と文化を活かした観光都市としても発展しています。金華山頂の岐阜城は夜間ライトアップも行われる人気スポットで、山麓からロープウェーで天守に登れば岐阜市街や長良川を一望できます。岐阜城天守は歴史博物館を兼ねており、斎藤道三や織田信長ゆかりの甲冑・刀剣類のレプリカ、古地図などを展示していますcity.gifu.lg.jp。山麓の岐阜公園内には信長の居館跡が発掘保存されており、その一角にある考古資料館で発掘品を見ることができます。また長良川鵜飼は毎年5月~10月にかけて行われ、長良川うかいミュージアム(2012年開館)では鵜飼の歴史や技術を映像や資料で学ぶことができますcity.gifu.lg.jp。市中心部には川原町の古い町並みが残り、江戸時代の面影を感じられる散策エリアとして人気です。さらに岐阜市歴史博物館では、先史時代の土器から戦国・近代の資料、戦災からの復興資料まで幅広く展示しており、郷土の歴史に触れることができます。平成21年(2009年)にはJR岐阜駅前北口広場に黄金の織田信長公像(高さ3m、台座含め11m)が建立されましたkankou-gifu.jp。この金色に輝く信長像は市民の寄付により造られたもので、常に時代の先端を行き革新を起こした信長の姿をマントと甲冑姿で表現していますgifucvb.or.jp。現在では岐阜市の待ち合わせスポットかつ歴史シンボルとなっており、多くの観光客も写真に収めていきます。
JR岐阜駅前に立つ黄金の織田信長公像(2009年建立)。戦国時代に岐阜を天下統一の拠点とした信長を称え、市民有志の寄付で建立されたgifucvb.or.jpkankou-gifu.jp。
このように岐阜市は、古代から連綿と続く歴史遺産と、戦国・近世の武将文化、そして近代以降の復興と発展の物語を併せ持つ都市です。市内には岐阜城、信長公居館跡、常在寺、岐阜大仏、川原町の町並み、長良川うかいなど各時代を物語る史跡・名所が点在し、それらを紹介する博物館・資料館も整備されています。先人の歴史を現在に伝えるこれらの財産は、市民にとって誇りであるとともに、多くの人々を惹きつける観光資源ともなっています。悠久の歴史と文化を背景に、岐阜市はこれからも発展を続けていくことでしょう。
《参考:岐阜市の年表(古代~現代)》
時代区分 | 年代(西暦) | 主な出来事【出典】 |
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原始・古代 | 縄文時代(紀元前13000年頃~) | 日野遺跡などで石器使用の痕跡city.gifu.lg.jp。弥生~古墳時代には各地に集落や古墳が営まれる。 |
飛鳥時代 | 672年 | 壬申の乱。美濃豪族の村国男依らが天武天皇方で活躍city.gifu.lg.jp。 |
奈良時代 | 713年 | 美濃国の表記に「美濃」の文字を使用(国名正式化)city.gifu.lg.jp。美濃紙を朝廷に献上city.gifu.lg.jp。 |
平安時代 | 818年 | 厚見荘(現茜部)を東大寺領とする荘園記録city.gifu.lg.jp。 |
鎌倉時代 | 1201年頃(建仁元年) | 二階堂行政が稲葉山(岐阜城)を築いたと伝承ja.wikipedia.org。以後、地頭二階堂氏の拠点となる。 |
南北朝~室町時代 | 1342年 | 土岐頼康が美濃国守護に就任city.gifu.lg.jp(以後土岐氏が守護職世襲)。 |
1542年(天文11年) | 斎藤道三が美濃を平定、稲葉山城下町「井ノ口」形成ja.wikipedia.org。 | |
戦国時代 | 1567年(永禄10年) | 織田信長が美濃攻略、井ノ口を「岐阜」に改名ja.wikipedia.org。岐阜城を本拠とし楽市楽座を実施ja.wikipedia.org。 |
1600年(慶長5年) | 関ヶ原合戦前哨戦で岐阜城落城city.gifu.lg.jp。徳川方が岐阜城を破却し加納城築城city.gifu.lg.jp。 | |
江戸時代 | 1619年(元和5年) | 岐阜町が尾張藩領となり岐阜陣屋を設置city.gifu.lg.jp。以後幕末まで尾張藩が統治chimeijiten.com。 |
1634年(寛永11年) | 中山道加納宿を正式に宿場町として整備city.gifu.lg.jp(美濃最大の宿場に繁栄ja.wikipedia.org)。 | |
1688年(元禄元年) | 松尾芭蕉が岐阜を訪問、鵜飼を観賞city.gifu.lg.jp(『更科紀行』に記述)。 | |
1832年(天保3年) | 正法寺の岐阜大仏(乾漆仏、高さ13.7m)完成city.gifu.lg.jp。 | |
明治時代 | 1871年(明治4年) | 廃藩置県。美濃国全域で岐阜県発足chimeijiten.com。県庁を笠松町に設置後、1873年に岐阜町今泉へ移転chimeijiten.com。 |
1889年(明治22年) | 岐阜市発足city.gifu.lg.jp(人口2.5万人、市章制定は1909年ja.wikipedia.org)。 | |
1891年(明治24年) | 濃尾地震、岐阜市で死者245名・家屋焼失約37%ja.wikipedia.org。 | |
大正時代 | 1919年(大正8年) | 新市庁舎(美江寺町)完成、市人口5万3,781人ja.wikipedia.org。 |
昭和時代(戦前) | 1936年(昭和11年) | 躍進日本大博覧会を岐阜公園で開催ja.wikipedia.org(戦前期有数の博覧会)。 |
昭和(戦中) | 1945年(昭和20年)7月9日 | 岐阜空襲。死者863人、市街地の大部分が焼失ja.wikipedia.org。 |
昭和(戦後) | 1949年(昭和24年) | 国立岐阜大学開学、市営バス運行開始city.gifu.lg.jp。 |
1950年~60年代 | 周辺14町村を順次合併(市域拡大、人口増)ja.wikipedia.orgja.wikipedia.org。 | |
1956年(昭和31年) | 金華山頂に岐阜城天守閣を再建city.gifu.lg.jp。 | |
1965年(昭和40年) | 第20回国民体育大会(岐阜国体)開催city.gifu.lg.jp。 | |
1973年(昭和48年) | 岐阜市民憲章制定city.gifu.lg.jp。柳ヶ瀬で大火、110軒焼失ja.wikipedia.org。 | |
平成時代 | 1988年(昭和63年) | 市制100周年。「ぎふ中部未来博」開催city.gifu.lg.jp。 |
1995年(平成7年) | 岐阜市が中核市に指定city.gifu.lg.jp。 | |
2006年(平成18年) | 柳津町を編入合併、新「岐阜市」誕生city.gifu.lg.jp。 | |
平成~令和 | 2012年(平成24年) | 長良川うかいミュージアム開館city.gifu.lg.jp(鵜飼の伝統を紹介)。 |
2015年(平成27年) | みんなの森 ぎふメディアコスモス開館city.gifu.lg.jp。長良川鵜飼が国重要無形民俗文化財指定city.gifu.lg.jp。日本遺産第1号認定city.gifu.lg.jp。 | |
2019年(令和元年) | 市制130周年。岐阜城・資料館リニューアルcity.gifu.lg.jp。 |
参考資料:市公式サイト「市の歴史」年表city.gifu.lg.jpcity.gifu.lg.jpcity.gifu.lg.jpcity.gifu.lg.jp、岐阜市公式ホームページcity.gifu.lg.jpcity.gifu.lg.jp、岐阜市史・岐阜市役所刊行物、岐阜市観光コンベンション協会資料gifucvb.or.jpなど。各種データは該当箇所に出典を示しました。