事業を創めるにしても、商売を営むにしても、先立つものは資本である。
いかに有望な事業を計画しても、資本がなければその事業を創始する事が出来ぬし、
いかに確実有利な商売があっても、資本がなければこれを営むことが出来ない。

また、資本がないために絶好の機会を眼前に見ながら、他人の活躍するところを指を咥えてみていなければならぬ場合もある。
更にこれを大にして国家という立場からみても、国家的施設の完備を期するには、国家の財政が根本であって、
産業、教育、鉄道、港湾等の諸施設を始め、すべての有用な計画も、財政が豊かでなければ実行しえられないのである。

即ち、産業の発達も社会政策的施設も、教育機関の完備も、その実行には必ず資本を要するのである。
されば、国家としても、個人としても資本の必要であることは今さら贅言[むだなことを言う]を要せぬところである。

 

しかしながら資本は万能ではない、もっと大切ななのは人である。
資本の価値も、これを活用する人によって定まるのである。

例えばここに一人の富豪があると仮定する。
その富豪が国家的事業とか、社会的事業とか、その他の道理正しい事のために財産を活用する時は、
その資産は非常に価値のある働きをするけれども、もし自分の道楽とか、その他の無用な事にしようする場合には、
少しの価値もないばかりでなく、かえって社会に迷惑を及ぼすことさえある。

従って財産が多いということのみを以って尊いということは出来ない。
道理正しい遣い途を知っている人にして、初めてその財産にも価値があるのである。

されば財産を作ることも結構であるが、資本を最も道理正しく活用する途を覚えることが、
より以上に大切であると思う。

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私は道徳と経済の合一といことを多年主張しており、私自身はこれを実践躬行して来たつもりであるが、
今日の世の中を見るに、どうも知識の進歩という方にはしり過ぎて、すべての方向に上辷りの傾向が多いように思われる。
これは時勢の変遷とも言い得ようし、教育の欠陥とも見られるだろうが何れにしもの好ましくない風潮である。

我が国の教育は古い時代には、むしろ精神に偏してしたようであるが、今日は昔と反対に科学的教育に偏しているため、
精神教育の方面は余程閑却されてるようにおもわれる。

かく智育に偏して徳育の方があまり顧みられぬ結果、世の中は潤い味が少なくなって、人々は何れも自我に囚われ、
私利私欲にはしるという、甚だ憂うべ思想が盛んになってきたように思う。

とかく、この富を致すという経済のことと、私共の主張する道徳とは一致を書くことがしばしば有り勝ちである。
そして余り道徳に傾き過ぎると、富貴栄達を嫌うようになるし、また功名富貴に囚われ過ぎると道徳などはそっちのけで、
目的のためには手段を択ばぬという弊風に陥りやすい。

従ってその何れに偏しても宜しくないが、中には道徳と経済とは到底一致すべからざるように考えている人も少なくない。
しかし、これは皮相の見解であって、富というものは道徳と一致するものでなければ正しい富と言い得ないし、道徳と経済とは決して相反するものでなく、
正しい道を履むことが即ち道徳なのであるから、私の主張する義利合一論は、各人の心掛けにいかんによって誰にでも容易に実行することが出来るのである。

されば富を得んと欲する人は、まず自分の履む途が正しいか否かをかんがえ、あくまでも正しい途を履み脱さぬように心掛けなければならぬ。
「鹿を追う猟師、山を見ず」という諺がある如く儲けようという考えだけが働いていると、時には正道を履み脱して不義に陥ることがある。
必す[心に固く決める]べきである。

 

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